24.始動


「お約束の品です。お役に立つかはわかりませんが、どうぞお持ちくださいませ」


「…………どうも」



 老紳士が机に置いて差し出した冊子に視線を落とし、七瀬ななせは短く礼を述べた。



「ただ、『あちら』へは報告させていただきます。これが何らかの問題に発展しないとは限りませんし……何よりあなたが自らこの私に依頼した、非常に珍しい案件ですので」


「それで結構。ちょっと、見てもいい?」


「勿論ですとも。既にあなた様のものでございます」



 許可を得ると、七瀬は冊子を手に取った。


 ページを捲る内に、目を覆いたくなるような事実が次々と明らかになっていく。網膜を通して脳内に伝達されたそれのあまりの凄絶さに耐え兼ね、七瀬は冊子を閉じて奥歯を噛み締めた。



 やはり見るべきではなかった。知るべきではなかった。



「大丈夫ですか?」


「大丈夫、もう帰る」



 立ち上がった七瀬に、老紳士は柔らかな声色で述べた。



「七瀬様、何をなさるおつもりかは存じませんが、出来るならこういったことにはあまり関わらないでいただきたい。あなたの身に、また何かあれば……」


「は、何それ。誰かさんからの苦情? Puppe bitte schweigen!」



 七瀬の口から、流暢な外国語が流れる。すると老紳士は慌てて頭を下げた。



「Es tut mir leid. Bitte vergib mir……先方は関係ございません。私の一存による憂慮です。出過ぎたことを申しました、どうかお忘れください」



 七瀬は彼から視線を背け、小さな声で本音を吐露した。



「…………友達なんだ、たった一人の。助けられるなら、命以外全部あげてもいいってくらい、大事な」



 彼女の言葉に老紳士は大きく頷くと、穏やかな笑みを浮かべて答えた。



「かしこまりました。引き続きの調査が必要であれば、また何なりとご連絡くださいませ」




 寄り道もせず真っ直ぐ自宅に帰宅した七瀬を出迎えたのは、可愛いと思おうと自分なりに努力しているにも関わらず、いつまで経っても全く可愛く見えない飼い猫だった。



「ナナセさん、おかえりなさいませニャン。遅かったじゃないですか。あれ? ゴハンを買ってくると言ってませんでした? また忘れたんですか? それとも何か作ってくれるんですか?」


「黙れ、クソ猫」



 玄関に立ち塞がるサラギを突き飛ばすようにして通り過ぎ、七瀬は筒見つつみの身辺調査の結果が纏められた資料の入ったバッグをリビングのソファに投げ付けた。


 その様子を興味深げに眺めていたサラギが、密やかにくちびるを吊り上げる。



「おやおや、随分とご機嫌斜めのようですが……何か、わかったんですね」



 七瀬は思わずサラギを睨んだ。


 不快感を露わにした鳶色の瞳を、飄々とした笑みが迎え撃つ。


 先に降参したのは、七瀬の方だった。今は、やつあたりなどしている場合ではないのだ。



「今夜、出かけるから……一緒に来て。ちょっと、色々行かなきゃならないかもしれない」



 目を逸らしたまま、七瀬がサラギに同行を求める。サラギは薄く微笑んだまま、頷いた。



「ええ、構いませんよ。そういえばナナセさんの方からお出かけにお誘いくださるなんて、初めてじゃありませんか? 楽しみですねえ」


「…………うん。楽しみだね。筒見さんに、会えるかもしれないし」


「ナナセさん?」



 七瀬はぺたりとフローリングに崩れ落ち、俯いて絞り出すように言った。



「私はきっと、ひどいことをする。サラギくんにきっと、ひどいことをさせる。欲しいなら、両腕でも両足でも何でも望みのものを持っていってくれていい。だからサラギくん、お願い…………筒見さんを、助けて」



 サラギは彼女ではなく、叩き付けられたバッグから零れた資料の冊子と、一緒にはらりと滑り落ちた白い封筒に近付いた。


 七瀬が筒見の隣人から預かったものだ。


 封は既に開いていた。タクシーの中で資料を読み終えた後で、消印のないそれの存在に思い当たった七瀬が何らかの手がかりになるかもしれないと考えて開封したのだ。


 サラギがその二つを手に取り、中身を改め始めても七瀬は止めようとしなかった。彼には知る権利がある。知らずに手伝わせるわけにはいかない。そう思ったからだ。



 筒見の壮絶な過去と現在置かれているであろう状況、そして彼女を追い詰めるために送られたと思われる痛ましい昔の写真の数々を確認し終えると、サラギは静かに告げた。



「…………いいでしょう。ですが、ナナセさんはひどいことなどする必要はありません。どうぞお家で休んでいてください。私が一人で行きましょう」


「足手まといに、なるから?」



 七瀬が小さく尋ねる。サラギは例の甘いような冷たいような取り留めない笑顔で頷いた。



「そうです。気が変わったと言ってまた止められては、堪ったものではありませんから。それに私、あなたにお願いしたいことが沢山あるんですよ…………どれか、一つでも聞き入れて下さればいいのですがねえ」



 口元を押さえた長い指の隙間から、含み笑いが溢れる。


 しかしもう、目は笑っていなかった。


 琥珀色の瞳にぽつりと一滴灯った濃密な狂気の光が、ゆっくりと広がり満ちていく。



 七瀬はもう、目を背けなかった。


 点火したのは自分だ。ならば責任を持って、火消しをせねばならない。



「わかった。サラギくんに、任せる」



 はっきり告げると、七瀬はゆるゆると立ち上がった。そして腕を伸ばし、サラギの頭を撫でる。



「ねえ、筒見さんのこと、軽蔑しないでね。筒見さんはやりたくてあんなことしたんじゃない。今もきっと、辛い思いしてる。だから筒見さんを、嫌いにならないで。できたらこれからも筒見さんを、支えてあげて」



 サラギは不思議そうとも嘲るともつかない奇妙な眼差しを七瀬に落とし、淡々と言葉を紡いだ。



「軽蔑もしませんし、嫌いにもなりませんよ。しかし、支えるという役割はあなたがおやりなさい。私は彼女に、そこまでする義理はありませんので。飼い主としての命令、若しくは追加の依頼だというなら別ですがね。さあ、コーヒーでも飲みながら今宵の流れを相談しましょう」



 七瀬は安心半分、落胆半分といった成分の溜息をついた。



 筒見が彼を少なからず意識していることには、薄々気付いていた。だからサラギが傍にいてやってくれるなら、彼女の心の傷も早く癒えるのではないかと思ったのだ。


 なのに彼の方は、全くその気がないらしい。


 想い人に過去の汚点を知らされたくはなかっただろうが、背に腹は変えられない。こんな状況では、恋愛するどころか会うこともできないのだ。彼女を無事に救い出すことができたなら、その時はどんな罵詈雑言も受け止めよう。絶縁されても構わない。



 サラギと隣り合わせてあれこれと策を練り、指示を出しながら、七瀬は自身も覚悟を決めた。




 昼の熱気が滞留する蒸し暑い夜道を、その女は早足で歩いていた。


 八月に突入してから毎日毎日、最高気温更新の連続。夜十時を回っているというのに、今も全身を薄い汗の膜が包んでいる。今夜も寝苦しい夜となりそうだ。果たしてこの厳しい夏を、扇風機だけで乗り切れるのだろうか。


 女は額から流れる汗をミニタオルで拭いながら、大きな溜息を落とした。


 ハローワークに通い始めて数日経つが、再就職への道は思ったより難航していた。今更ながら、仕事を辞めたことを後悔する。


 だが、左肩を走る痛みがそんな後悔を吹き飛ばした。


 一週間ほど前、得体の知れない男に負わされた怪我だ。そいつの目を思い出すと女は暑さも忘れて怖気立ち、また足を早めた。


 いくら稼ぎが良くてもあんな危険な仕事、もう二度とごめんだ。肩が治ったら、本腰を入れて仕事を探そう。それまでこの暑さをどう凌ぐか、それが彼女にとって今一番の問題だった。



 節約のためにバスを使わず駅から三十分以上かけて歩き、閑静な住宅街を抜けて小ぢんまりとしたマンションに到着すると、女はエレベーターに乗って五階にある我が家へやっと帰ってきた。



「はあ、つっかれたあ〜」



 玄関扉を閉め、靴を脱ぎながら一人暮らしですっかり癖になった独り言を漏らす。しかし今夜は、室内の電気を点けた瞬間に返事があった。



「お疲れ様です」



 女は驚いて飛び上がった。その拍子に足を滑らせ、尻から転倒する。


 だが悲鳴を上げる前に、そいつは彼女の口を手で塞ぎ、自らのくちびるにも立てた人差し指を宛てがってみせた。静かにしろ、と言っているのだ。



「お久しぶりです。お会いしたのは一度きりですので、もう覚えていらっしゃらないとは思いますが、その節は大変失礼いたしました」



 品良く整った顔を認めると、女は恐怖に目を見開いた。


 忘れるはずがない。忘れられるはずがない。二度と遭遇したくない一心で、彼女に仕事を辞める決意までさせた張本人だ。



「お部屋に勝手に上がってしまってすみません。高いところにお住まいとはいえ、窓の鍵を開け放して出かけるなんて不用心ですよ」



 確かに、帰宅した時に出迎える部屋の熱気に耐えかね、この頃は網戸にしたまま外出していた。しかし、ここは五階だ。


 どうやって侵入したのか?

 いやそれ以上に、この男は何をしに来たのか?


 塞がれた女の口の中で、震えて噛み合わない歯がカタカタと音を立てる。怯え切った女を見下ろし、サラギは更にくちびるを吊り上げた。



「そんなに怖がらなくても大丈夫ですよ。私は泥棒などではありません。あなたと、どうしてもお話がしたくて。この前は邪魔が入りましたけれど…………今日は、ゆっくり話せますよねえ?」



 暗黒の深淵奥底に誘うかの如く、暗い暗い光に満ちた瞳に映る己自身の姿は、琥珀に取り込まれ身動き出来ずに死していく昆虫のようで――――女は本能的に、もう観念するしかないのだと悟った。

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