21.引越
無理を言っての遠出の代償は、普段より念入りな検査だった。
転んで頭を打っただとか具合を悪くして倒れただとかならまだしも、半日程度海で遊んだくらいで何処かおかしくなるとは思えないが、それだけ
結果はやはり異常も問題も見られず、『この調子ならば、徐々に行動範囲を広げていくことも視野に入れよう』と心配性の主治医にしては随分と寛大なお言葉まで頂けた。
「社会復帰させたい、でも目を離すと不安、なんて本当に矛盾してるわよね。少しは七瀬さんに任せて、様子を見るのも私の務めだわ。以前に比べて、大分無茶はしなくなったみたいし」
これまで過保護すぎたと反省しながら、藤咲は七瀬に苦笑いしてみせた。
「そうだね、勝手が分かるようになったから。ここがボーダーっていうのを把握するまでが大変だったけど」
七瀬もまた、己の闘病歴を顧みる。
五感のほぼ全てを失った中で、夢現の境も分からずひたすら叫び続けていたこと。
容態が安定すると、拘束具を引き千切る勢いで激しく暴れたこと。
その後、何も話さなくなったこと。
何も感じなくなったこと。
それがある時から『何があっても死にたくない』と思うようになったこと。
やっと藤咲と口を聞くようになり彼女に手助けを求めたこと。
なのにふとした瞬間に、フラッシュバックを起こして暴走してしまうこと。
様々を通じて七瀬が学んだのは、どこにどれだけ力を加えたら壊れるかの境界線だ。
それを知るためには、何度も破壊を繰り返して加減を推し量る試行錯誤が必要だった。
藤咲が過度なまでの心配症になってしまったのは、その際に七瀬が肉体的にも精神的にもかなりの無茶をしたせいだ。
おかげで現在も行動を制限されることが多い。しかし全ては自分の責任。つまり、今回のようにちょっと遠出したくらいでも大層な面倒を強いられるのは、自業自得なのである。
「でも今は、そのボーダーを理解してくれる友達がいるからすごく気が楽。海、楽しかったよ。皆いい人ばかりだった」
久々に堪能した夏の海と大勢の人間との触れ合いを思い返し、七瀬はほんのり語調を緩めた。しかし良かった良かったと言ってくれるかと思った藤咲は、身を乗り出す勢いで捲し立てた。
「友達って、もちろん
「
扱いは雑であったが、いまだに彼を飼い猫として傍に置いていることには変わりはないようだ。
藤咲は肩を落とした。誰と付き合おうが彼女の自由だとはわかっている。頭では理解しているのだが、どうにもあの男だけは生理的に、いや、本能的に受け付けないのだ。
「サラギくんのことなら心配要らないよ。空気読めないけど、線引きはちゃんとしてる奴だから。私の、体のことも知ってるし……」
しかし、そこは流石に聞き捨てならなかった。
「ちょっと七瀬さん! あなた、まさか……あの男と寝たの!?」
「は? 寝ないよ。睡眠時間には誰も寄せ付けないって先生が一番知ってるじゃん」
「そうじゃなくて、肉体関係を持ったのかって聞いてるの!」
「…………たまに頭なら撫でるけど?」
この受け答えで、どうやら彼女の貞操は無事らしいと藤咲は理解した。
となると体のこととは、やはり疾患についてを指しているようだ。それを踏まえた上で、藤咲は彼女に尋ねた。
「自分で、話したの? 彼は、どこまで知ってるのかしら?」
あの男と共に暮らすのなら、こちらも彼女がどこまでを彼に許容しているのか把握しておかねばならない。そんな藤咲の意図を眼差しから読み取り、七瀬は一つ息を吐いてから答えた。
「母親の死については、自分から伝えた。でも、詳しい状況については話してない。あっちからも全然触れてこない。だから、猫にしてもいいと思ったんだ。サラギくんっていう人はきっと、私と見てる世界が違うんだと思う。猫の世界と、人の世界みたいに」
七瀬の紡いだ言葉は、不可解であるにも関わらず藤咲の胸にすんなり吸い込まれて収まった。
見ている世界が違う――サラギなる人物に対して抱いた違和感は、形容するならまさにそれだ。
「そうね、何だか不思議な雰囲気の持ち主だったわ。それでも私には、あれがとても猫には見えないけどね」
藤咲が含み笑いで返すと、七瀬は肩を竦めた。反論しようがない時によくやる彼女の癖だ。
サラギが何かおかしな挙動をしたらすぐに知らせろと何度も何度も念を押し、藤咲はやっと七瀬を解放した。本人は心配無用と言ったが、肉体関係とは何たるかも理解できていない無知で無垢な少女が素性も知れない変な男と同居するなんて、やはり不安要素しかない。
数々の検査と藤咲のカウンセリングが長引いたせいで、七瀬が病院を出ると時刻は既に午後四時を過ぎていた。傾きかけているとはいえ陽は煌々と熱射を落とし、院内の敷地に青々と茂る木々からは変わらず蝉の絶叫が響き渡っている。
肌に貼り付く暑さを避けようと急いでタクシーに乗り込んだ七瀬は、運転手に自宅ではなく筒見の部屋を行き先として告げた。電話をかけても繋がらなかったのだが、片付けがどの程度終わったか気になったし、いまいち進んでいないようなら手伝おうと思ったのだ。
サラギと違い、同性同士ならそこまで恥ずかしがることもないだろう。断られたら、大人しく帰ればいいだけの話だ。
チョコレートカラーのアパートでタクシーを降り、携帯でもう一度電話をかけてみる。コール音はするものの、やはり筒見は出なかった。
確か、バイトも今日は流石に休むと言っていたはずだ。片付けに夢中になり過ぎて気付いていないのか、それとも携帯を置いたまま買い物にでも出かけているのか。
取り敢えず部屋を訪れてみようと階段に向かった七瀬は、しかし何気なくアパート奥にある専用のダストボックスを見て、足を止めた。
近付いてみると、大型のダストボックスには蓋が閉まり切らないくらいに夥しい量のゴミが詰め込まれている。恐らく筒見のものと思われたが、彼女らしからぬ雑な捨て方に七瀬は違和感を覚えた。
分別など無視して無造作に詰められたゴミ袋を改めている内に、違和感は疑惑へと変わった。ダストボックスの奥底には、見覚えのあるコンビニの制服や学校関連の教材までもが纏めて袋詰され破棄されていたのだ。
いくら何でも、これはおかしい。
あれ程楽しんでやっていた仕事を辞めるなんて。それ以上に、あれ程保育士になる夢を熱く語った筒見が教科書を捨てるなんて。
慌てて階段を駆け登り、筒見の部屋のインターフォンを押してみる。しかし電話と同様、どれだけドアを叩いて呼んでも彼女は現れなかった。
意を決して、七瀬は隣の部屋のインターフォンを押した。
「はい、どちら様?」
出てきたのは、学生らしき若い青年だった。
「すみません。隣に住む筒見の友人なんですが、彼女の姿を見ていませんか?」
七瀬が尋ねると、青年は事も無げに告げた。
「お隣なら、もう引っ越したみたいですよ。昨日空き巣に入られたし、不安だったんじゃないかな?」
「引っ越し? いつ頃ですか?」
「お昼過ぎに僕が帰ってきた時は、あらかた作業が終わってましたよ。大人数で一気にやったって感じで」
何が何だか分からず七瀬は呆然としながらも、一つ確認のために聞いた。
「あの……筒見さん、どんな様子でした?」
「いや、僕は見てないです。厳つい兄さんばっかりで、女の人は一人もいなかったと思います」
それを聞くと、七瀬の中に渦巻く疑惑は胸騒ぎを通り越して決定的な確信となった。
男性に対して警戒心の強い筒見が、男ばかりを集めて自室の整理を任せるはずがない。
となると、この引っ越しは本人ではなく、別の何者かの仕業だ。
それならば彼女はどうしている? どこで何をしている?
急に黙り込んでしまった七瀬に、青年は戸惑っていたが、そういえば、と部屋の奥に引っ込み、一枚の封筒を差し出してきた。
「これ、一昨日くらいに間違ってウチの郵便受けに入ってたやつなんだ。すっかり渡しそびれちゃってたから、返却お願いしていい? 僕はもう会うことないだろうけど、友達ならすぐ連絡くると思うしさ」
もしかしたら友人の急な引っ越しに落ち込んだように見えた七瀬を、彼なりに元気付けようとしてくれたのかもしれない。
「ありがとう、ございます。必ず渡します。ご迷惑おかけしました」
白い封筒を受け取ると、七瀬は親切な隣人に精一杯声を振り絞ってお礼を告げ、階下へと降りた。
そして再びダストボックスの前に立つ。
七瀬は携帯を取り出し、とある番号を眺めて暫し逡巡してから通話ボタンを押した。
「…………ちょっと、お願い、あるんだけど」
珍しく殊勝な言い方で切り出す己を自嘲しつつ、七瀬は詳しい依頼案件を電話の相手に伝えた。
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