20.訪問
躾について思い悩んでいるというのは本当のようで、タクシーの車中でも
碌に眠れなかったせいで、重い瞼の隙間から刺さる日の光が痛い。だが睡眠も出来ぬ程思い煩ったにも関わらず、深夜の一件を知らない七瀬は勿論、サラギもいつもと変わらぬ様子で接してくれた。筒見は心の底から安心し、自身もまた何事もなかったかのように振る舞った。
しかし、その一方で胸の辺りに靄めいた何とも言い難い気持ちが残ってもいた。あの無礼講をなかったことにしてくれたのは嬉しい。なのに、なかったことにしてほしくないとも思う自分がいる。
彼が最後に告げた台詞の真意を知りたい。今、筒見の心を占めているのはその一点のみだった。
「お客様、到着しましたよ」
運転手の呼びかけに、愛読書に集中していた七瀬と物思いに耽っていた筒見は同時に顔を上げた。
「おっといけね、半分寝てた。送ってくれてありがとね、ナナちゃん」
筒見が舌を出してとぼけてみせると、七瀬は真っ直ぐに彼女を見て言った。
「あんまり顔色良くないけど、まだ休んでた方がいいんじゃない? 診察が終わったら迎えに来ようか?」
婉曲にまた泊まりに来ていいと申し出る七瀬に、しかし筒見は笑顔で首を横に振った。
「とんでもねえでげすよ、ナナ様にこれ以上迷惑はかけられませんや。あんな良いベッド使わせてもらっても、涎垂らしたらどうしよう? とか、顔の脂で染み作ったらヤバくね? とか、変な心配しちゃうし」
「そんなこと気にしてたから、寝不足っぽいんだね。じゃ次はビニールシートかけて寝なよ。わかってると思うけど、自前で持参だからね」
「そんな大層な物持ってないから、次のお泊まりはラップ持ってくよ。あ、空き巣のこと、
くだらない冗談を躱し合ってから、筒見は料金を支払いタクシーを降りた。
ひりつく日焼け跡に、強い陽射しが噛み付く。走り去る黒いタクシーが角を曲がり見えなくなるまで、筒見はずっと七瀬を見送り続けた――救いの手を伸べてくれた友人に対する感謝と、彼女の愛猫にちょっかいをかけた後ろめたさを滲ませた目で。
それから彼女は沈んだような浮ついたような微妙な気分のまま、アパートの階段を登り、階段のすぐ傍にある自室の部屋の鍵を空けた。現場検証の後と同じ、雑然とした室内が目の前に広がる。
「やれやれ、せめて寝床くらいは確保しなくちゃね」
降り注ぐ静けさに、また迷走しそうになる思考を振り切ってわざと明るく呟いてみる。筒見はまず割れた窓を開けると、幸運にも壊されていなかった扇風機を相棒に片付けを始めた。
荒らされた室内と格闘して、一時間程経った頃だろうか。
やけになって歌いながら作業していた筒見の手を、インターフォンの音が止めた。窓を開け放したまま大声でアニソンを喚き散らしていたので、誰かが近所迷惑だと訴えに来たのかもしれない。
「はいは〜い、少々お待ちくださ〜い。すぐ出ま〜す」
倒れた家具や散らばる小物を避けて玄関に辿り着くと、筒見は何の警戒心も持たずにドアを開け――――瞬時に凍り付いた。
インターフォンを押した相手は、扉が閉められる前に無理矢理体を捩じ込んで室内に侵入するや彼女を突き倒した。そして、連れと思われる二人の男と共に目前に立ち塞がる。
中心に立つ人物は、四十越えたくらいの痩せた男だ。高級ブランドのシャツをだらしなく着崩した格好といい、残忍を絵に描いたような笑みといい、世間でいう『普通』からはひどくかけ離れた陰惨な空気を放っている。
「久しぶりだなあ、
粘着質な声色が、筒見の名を呼ぶ。
獲物を狙い定めた肉食獣の如き目に射竦められながらも、筒見は震えるくちびるを動かした。
「ど、どうして…………ここが……?」
男は上半身を起こした筒見に屈み込み、ゆっくりとした口調で愉しげに語った。
「新聞でお前を見た奴が、知らせてくれたんだよ。お前、今保育の学校に通ってるんだってなあ。おまけに彼氏もできて楽しくやってるって? しかし、この俺に何の連絡もなしとはちょっとつれないんじゃないのかねえ?」
「…………いつ、出てきたの」
恐怖で気がおかしくなりそうになる自分を叱咤し、筒見は更に尋ねた。
「昨年末だ。お前のせいで、散々な目に遭わされたな……この裏切者が」
筒見の髪を鷲掴みにして顔を引き寄せると、男は初めて表情に怒りを露わにした。
「俺は優しすぎたらしい。だから今度は、もっと厳しく教育してやる。連れて行け」
低くそう告げると男は筒見の髪から手を離し、二人の男を促して彼女を立たせた。
「やめて、どこに連れてく気なの? あたし、もうあんたに協力なんてしない! あんなこと二度とやりたくない!」
悲痛な叫びは、突如腹部を襲った凄まじい衝撃に飲み込まれた。情け容赦ない力で腹を蹴り付けられたのだと理解すると同時に、筒見は盛大に嘔吐した。
「生意気抜かすな、お前に人並みの生活なんざもう出来ねえんだよ。おままごとは終わりだ。迷惑かけた分まで働いて、精々孝行するんだな。それがお前の役割だ」
冷ややかに言い放った男に、筒見はそれでも胃液と唾液を垂れ流しながら必死に哀願した。
「……嫌だ、嫌だよ…………お義父さん」
二度目の拳による衝撃は深く重く、筒見の痛切な意志を無視し、意識を遠くへと追いやった。
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