19.添寝


「…………どうしました?」



 眠りに就いて一時間もしない内にノックで起こされたサラギは、開き切らない目を擦り擦り扉を開けた。



「ご、ごめん……あの、トイレ、行きたいんだけど、どのトイレ使えばいいの? 三つもあるし、お風呂みたいに誰が使うか決まってるのかと思って」



 筒見つつみは文字通り、平身低頭して尋ねた。


 今日借りたマスターベッドルーム傍のバスルームは七瀬ななせ専用であり、サラギにはもう一つの方を使わせていると聞いていた。ならばトイレも個別なのかもしれないと考え、となると自分はどちらを使うべきなのかと悩んだ挙句、迫りくる尿意に耐え兼ねて隣の猫に聞くことにしたという次第である。



「ああ、そこのでいいんじゃないですか? ナナセさんの部屋の傍にある御手洗いも、玄関口にある方も遠いですし」



 サラギは廊下を挟んで向かい合う洗面室の奥を指差した。不機嫌ではないが、とてつもなく投げやりな口調だ。余程眠いのだろう。



「あ、ありがと。えと、電気のスイッチはどこだっけ?」


「行けば勝手に点きますよ、消灯も自動です。では今度こそおやすみなさいませ」



 そう言ってサラギは扉を閉めた。しかし睡魔に身を委ねる間もなく、再び扉が叩かれる。



「今度は何ですか? ……ってちょっと!」


「うわあ、こっちの部屋も広ーい! あたしのワンルームと同じくらいじゃん、何この御殿。お、クローゼットはこっちのが大きいんだね。あたしの部屋は縦長だったけど、こっちは横広なのかあ。バルコニーの光が当たりやすくていいね! 猫だけにいつも日向ぼっこしてんの? いいなあ、いいなあ、羨ましいなあ」



 サラギの隣を擦り抜け、室内侵入に成功した筒見はあちこち物色して回り、ついにはキングサイズのベッドに飛び乗った。



「寝心地もこっちの方がいいかも。ふかふかぁ。猫には過ぎた寝床だなあ」


「ふかふかも何も、寝具はそちらの部屋と全く同じですよ……何なんですか? お互い朝早いんですから、休みましょうよ……」



 ふざけてベッドの端から端へと転がり回る筒見とは正反対に、サラギは憔悴した様子で項垂れた。萎れた猫耳の代わりにナイトキャップ先端のポンポンが垂れる。


 筒見は構わず掛け布団の隙間に潜り込み、顔だけ出して小首を傾げてみせた。



「じゃあ一緒に寝よ? どうせ起きる時間は同じなんだし、いいじゃん。あたし、ここが気に入った。ここがいい」


「は? 嫌ですよ」



 予想を裏切らず、サラギは嫌そうに眉をひそめて筒見の提案を一刀両断した。


 だがそれは、彼が頑ななまでに主張する堅苦しい男女観故ではなかった。



「ナナセさんとも一緒に寝たことがないのに、別の方と添い寝なんてできません。飼い猫が自分より友人に懐いたと思われたらどうするんですか。それでなくても、ナナセさんは躾について色々と悩まれているのです。初めて生物を飼うと仰っておりましたが、それでも真摯且つ懸命に育成に奮闘しております。そんな健気な主を、私は飼い猫として落ち込ませたくはありません。どうかお引取りください」



 そっちかい、と筒見は苦笑した。とはいえ、恋人役をしている時に言ったところでははしたないと一蹴されたに違いない。猫に戻っても、堅物は堅物だ。



「ナナちゃんには言わない。約束する。気持ちが落ち着いたら出てくから……一人だと色々考えて眠れないの。だから少しだけ。お願い、サラギくん。お願い……」



 ベッドの傍らに立つサラギのガウンを軽く掴み、筒見はこれまで必死に隠してきた悲壮感に満ちた目を晒け出して、精一杯懇願した。



「…………少しの間だけですよ」



 仕方なしに溜息をつくとサラギはベッドに腰掛け、筒見が空けたスペースに身を横たえた。



「サラギくん、ホントにごめんね」



 隣同士に頭を並べ、やや間を置いてから筒見は小さく呟いた。



「別に気にしてませんよ。色々ありましたからね」 



 サラギの声はいつも通りだったが、こちらに背を向けているので表情まではわからない。もしかしたら、いや、もしかしなくても怒っているのかもしれない。


 きちんと謝らねばと、筒見は言葉を続けた。



「今もだけど……アパートで警察が来るまで、すごい駄々こねたじゃん。我儘ばっか言って、みっともないとこ見せちゃったなあって。ホント超迷惑かけたよね。ごめんなさい」


「ああ……確かに、あれはすごかったですねえ。お気に入りの玩具を取られた子供みたいでした」



 くすくすという忍び笑いにつられ、サラギの肩が揺れる。


 サイレンの音が聞こえたと報告に戻った七瀬に促され、離れようとしたサラギに、行かないでと泣き喚き縋りつき続けた自分の情けない姿を思い出すと、筒見は掛け布団に顔を埋めて弱々しい声を絞り出した。



「気の済むまで謝るからマジ忘れて。恥ずかしくて、また泣きそう……」



 発した言葉に触発されたようで、本当に目頭が熱くなってきた。


 掛け布団で溢れる涙を拭いながら込み上げる嗚咽を堪える筒見に、気配を察したのか、サラギは静かに告げた。



「好きなだけ泣いたらいいじゃないですか。私ももう眠りますし、誰も見ていませんよ。泣き止んだら、落ち着くでしょう。そうしたら戻りなさい」



 優しい決定打に、筒見の涙腺はあっさり決壊した。とめどなく流れる涙に声を詰まらせ、漏れる嗚咽のままに子供のように激しく泣きじゃくる。


 今の筒見には抱き締めてくれる腕より優しい慰めの言葉より、傍で泣くことだけに没頭させてくれることが一番有り難かった。



 どれくらいそうして泣いていただろうか。


 筒見はぼんやりと高い天井を見上げ、涙を出し尽くした目を軽く瞬かせた。瞼は熱く腫れ、喉が引き攣るように痛む。頭も重く鈍痛が響いたけれども、幾分気持ちはすっきりしていた。


 窓から射し込む月明かりを頼りにそっと隣を伺えば、白い寝間着に包まれた広い背中が映る。



「サラギくん、ありがと……もう寝ちゃったかな?」



 声をかけてみても、サラギは微動だにしない。恐る恐る手を伸ばして背中に触れてみると、掌に規則的に繰り返される呼吸とエアコンの風に冷えたパイル素材、そしてそれを通して温かな体温が伝わった。


 意を決して、筒見は彼の肩を掴んで引いてみた。


 眠りは随分と深いようで、サラギはなすがままにこちらに転がり、あっさり寝顔を晒した。長い睫毛を伏せ、しっかりと口を結んだその表情は、白い寝間着姿も相まって、眠っているというよりは綺麗な死顔のようだった。



「ふうん、こんな顔で寝るんだ。何か思ってたのと違うなあ、もっと可愛いと思ってたのに」



 嫌な想像を振り払うように、わざと声に出して悪態をつく。サラギが目覚めるかもしれないと半ば恐れ半ば期待したが、彼は身じろぎ一つしなかった。


 筒見は体を起こし、彼の顔を真上から間近に見つめた。


 間違いなく呼吸をしているはずなのに、白くたおやかな面に生気は感じられず、抜け落ちた魂が置き去りにした抜け殻のように思えて――――すると無性に堪らなくなり、筒見はゆっくりと身を屈めて、サラギの顔へと自身の顔を近付けた。




「…………何をしているんですか」




 筒見のそれと触れかけたくちびるから、ひどく冷徹な声が放たれる。


 月光を反射し鈍い光を帯びた琥珀色の瞳が、至近距離から彼女を見つめていた。



 勢い良く飛び退いて何とか言い訳しようとしたものの、この状況では何を言っても無駄だ。



「あ、う、そのあの……ごめんなさい、血迷って寝込みを襲ってしまいました…………」



 観念して筒見が頭を下げると、サラギはすぐに掛け布団を被り背を向けてしまった。



「それだけの元気があればもう大丈夫ですね。部屋に戻りなさい」


「あの……ごめん。ホントにごめんなさい」


「謝らなくて結構、出て行ってください」



 有無を言わせぬ強い口調だった。こうなればもう、大人しく引き下がるほかない。


 言われた通りにベッドを降りてドアに向かった筒見の背に、しかし静かな救済の言葉が降ってきた。



「筒見さん、怒ったわけではないので誤解なさらず。ただ、私にもうこんなことをしてはいけません。あなたに、何を求めるかわかりませんから」


「え……それ、どういう……」


「おやすみなさいませ。寝過ごしたら、猫パンチですよ」



 意味を問い質そうとしたけれども、冗談混じりに濁されて叶わず、筒見は悶々とした思いを抱えたままサラギの部屋を後にした。

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