14.和解


『……は、……ない』


『……は、……じゃない』


『……ア、……、……、……』


『ア、……、……、キ……』



 いつもの姿、匂い、味――だけど今日は、何だか少し違う。


 何だろう?


 ああそうか、呼び声が遠いんだ。



『ア、カ、……、キ…………』



 ついにあなたの声が聞こえなくなるのか。そしていずれ、存在も消えていくのか。こんなにも忘れたくないと願っているのに。



『ア、カ、ツ、キ……』


『ア、カ、ツ、…………』



 嫌だ、行かないで。


 これが都合の良い幻覚だと知っている。自ら記憶に刻んだ虚像でしかないと分かっている。それでもいい。この身からあなたを奪わないで。



『ア…………』



 声が途切れたところで、七瀬ななせはやっと目を覚ました。



 急速に現実へと引き戻された耳に、執拗に鳴り続けるインターフォンの音が届く。なるほど、このせいで声が聞こえ辛かったらしい。


 寝室を出てリビングに向かい、壁面に設置されたモニターを見る。すると、深く俯いているせいで黒髪に顔が隠れた黒ずくめの人物が映っていた。


 ホラー映画の主役にするつもりかよ、と内心毒づきながらも、七瀬はエントランスを解錠した。



「…………」



 部屋の鍵を開けてやっても、そいつは黙ったまま項垂れているだけで、玄関から上がろうともしない。



「何、立ったまま寝てるの? そこは寝る場所じゃない、寝るならちゃんと部屋で寝てくれる」



 七瀬はそう告げて、コーヒーでも淹れようとキッチンに向かった。いや、向かおうとして腕を掴まれ、引き留められた。



「ナナセさん、怒って、ないんですか……?」



 サラギが恐る恐るといった口調で尋ねる。七瀬は不思議そうに小首を傾げた。



「がっつり怒ったけど? ブラジリアンキックまで食らわせたし」


「え? ええと、あの、もうお怒りは鎮まった、ということですかね?」


「鎮まるも何も、とっくに済んだことなのに何でまた怒らなきゃならないの? 面倒臭い」


「いやその、でも……あの後、暫くして帰ったのですが、鍵を開けてくださりませんでしたし」


「だって、寝てたし。余程のことがない限り、私が零時過ぎたらベッドに入るってことはもう知ってるよね? だからカードキー渡したんだけど。まさか、失くした?」


「カード、キー……」



 サラギはスーツの内ポケットを探った。


 そこにはマンションエントランスからエレベーター、そして七瀬宅玄関扉を解錠するカードキーが確かにある。使い方を聞かねばと思いつつ、そのまま存在ごとすっかり失念してしまっていたらしい。



「アホすぎて忘れてるみたいからもう一回言うけど、それだけは失くさないでね。作るの大変だし、下手するとエントランスもエレベーターも鍵を総交換しなきゃならなくなるから。で、今日は何時から筒見つつみさんを……」



 淡々と話す七瀬の前から、突然サラギの姿が消えた。と思ったらそれは間違いで、彼は玄関の床に正座し頭を擦付けて平伏していた。



「ナナセさん、本当にすみませんでした! 身の程も弁えず勝手な行動を取り、挙句に失礼極まりない発言をしたこのうつけ者を、どうかお許しください。これからは己の本分を肝に銘じ、飼い猫らしく主であるあなたに尽くします。お願いです、お傍に置いてください……」



 フライングの土下座に面食らっていた七瀬だったが、困惑しつつも屈み込み、サラギの頭を撫でた。



「もういいって言ってるのに、変な奴。まあ、飼い猫が自分が王様だと思い込むってのは、よくあることなんだって。だから気にしなくていいよ。私の躾が行き届いてなかったせいもあるし」



 サラギが顔を上げる。


 相変わらず無表情だったが、七瀬の瞳に昨夜のような蔑みの色は微塵も窺えなかった。


 本当に怒っていないのだと確認すると、サラギは漸く安心して身体から力を抜いた。


 どうやら七瀬という少女は、怒りはその場限りで綺麗に発散し尽くし、後には欠片も残さない質らしい。



 七瀬に促され、専用に割り振られたバスルームで入浴し、彼女が作った不格好なオニギリを食べ、お気に入りのナイトガウンとナイトキャップという寝間着スタイルに着替えると、サラギはこれまた自室として与えられた客間の一つに入り、キングサイズのベッドに身を投げ出した。


 そして目を閉じ、不思議な人物だ、と改めて七瀬を思う。すると同時に、腹腔に黒い熱が込み上げてきた。



 気に入らない。



 初めて会った時から、彼女に対する印象はそれ一言に尽きた。寧ろ知れば知る程、不快感が増していく。



「…………やれやれ。気の短い方ではないと思ってましたが、耐え切れますかねえ?」



 薄く笑んだくちびるから胸の内を零してから、サラギはそのまま吸い込まれるように静かに眠りに落ちた。

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