13.御守
午前四時近くにもなると、地平線に迫る太陽の光が薄っすらと闇を飲み込み始める。その内に、夏の星座を散らした夜空は溶けるように消えていった。
真夏の夜は短い。
急速に色を変えていく空の様相を仰ぎ見ながら、
徐々に明るくなる景色の中、彼の周りだけはいつまでも暗黒に閉ざされているかのように暗く重い空気が漂っている。
その理由を、筒見は既に彼から聞いて知っていた。
自分の元から離れた尾行が何故かサラギに向かったこと、その相手が複数犯であったことは確かに大きな驚きであったし激しく動揺した。けれども、その一人を捕まえ問い質そうとした時に、勝手な真似をするなと制止した
どちらかといえば常に不機嫌寄りだが、七瀬は感情の起伏に乏しい。そんな彼女が怒りを爆発させるなんて余程のことだ。
そして、いついかなる時も鷹揚と構えているように見えたサラギもまた然り。こんな彼にも怒りという感情があったのかと、今更ながらに感心したくらいだ。
そんな二人が憤りに任せて暴言を吐き散らし、激昂のままに言い争う姿など筒見には想像すらつかなかった。
一応マンションには行ってみたというが、外部に設置されたインターフォンを押しても彼女からの応答は全くなかったそうだ。
「…………サラギくん、ごめんね。私がこんな面倒なこと、頼んだから。私のせいで、二人に喧嘩させちゃった」
筒見が小さな声で謝ると、うわの空といった状態でとぼとぼ歩いていたサラギは力無い笑顔を浮かべてみせた。
「いえ、筒見さんのせいではありませんよ。全面的に私が悪いのです。ナナセさんの仰る通り、筒見さんに意見を仰ぐことなく私の勝手な考えで出過ぎた真似をしたのですから。ナナセさんにまで危害が及ぶのではないかと気が急くあまり、冷静さを欠いておりました。出来ることなら、時間を戻して欲しいです…………切実に」
それを聞くと、筒見は二人が何故どちらも譲らず、食い違う意見を闘わせたのかをやっと理解した。
七瀬が彼に食ってかかったのは、きっと親友である自分のためだろう。
だがこの男は、今し方の言葉通り、七瀬の安全を優先した。
その結果、意見が噛み合わず、激しく拗れた挙句、決裂したに違いない。
「そうだね、あたしも戻れるなら戻りたいな。もう一度何もかもやり直したいよ……でももう、叶わないんだよね」
静かでどこか悲しい声音で呟きを零し、筒見は再び空を見上げた。
「どんなに願ったって時間は戻らないよ。だから今、自分に出来ることを精一杯やらなきゃ。また後悔しないようにさ」
「…………ええ、時間は流れる。しかし、自分が此処にて過ごす時は有限ですからね」
サラギは漸く、普段の飄々とした笑みで以って受け答えた。
安堵の息をつくと、筒見は胸を擦った過去の余韻を振り切り、無理矢理に笑い返した。
「そうだ、サラギくん、今日はウチ来る? また学校行く時に来てもらうのも二度手間だし、お礼代わりに宿くらい提供するよ。大したおもてなしはできないけど、寝るくらいの場所はあるからさ」
取り敢えず提案してみたけれども、サラギの答えは彼女の想像通りだった。
「は? 未婚の若い娘が、自室に男を引っ張り込むなど言語道断ですよ。筒見さん、あなたの貞操観念はどうなっているんですか。いくら私を無害と知っての言動とはいえ、周りから見ればただの男。その男と婚前交渉に及んだとご近所から街中にまで噂され、皆に白い目で見られるのですよ? ふしだらの烙印を押され、婚期が遅れても私には責任は取れません。今後、そのような誘惑めいた発言は控えて下さい」
真剣に説くサラギの生真面目な表情に、筒見はつい吹き出してしまった。
何度かお茶に誘った時もお断りされていたのでどうせそんなことだろうと思っていたが、この男、一体どれだけ堅物なのやら。
「とか言って、ナナちゃんはいいんじゃんか。ナナちゃんの婚期は無視する気? サラギくんのせいで貰い手なくなったらどうすんのさ?」
「ご心配には及びませんよ。私、あの方の猫ですので」
敢然と言い切ると、サラギは筒見に明確な意志を宿した目を向けた。後悔しないためにも、行動するつもりらしい。
そうだ、彼の言う通りだ。
サラギの決意に満ちた眼差しを見て、密かに弱気になりかけていた筒見は心の中で己を叱咤した。
過去を振り返り、悔やむことに意味などない。おかしな連中に纏わり付かれたからといって、気弱になって萎縮する暇も惜しい。
今この瞬間を、大切にひたむきに生きねば勿体無い。
「サラギくん、ありがとね。あたし、戻りたいなんて泣き言言わずに頑張るよ。尾け回してる人達のことは怖いけど……負けない。今度は捕まえて、何が目的か吐かせてやるんだ。だから、これからもご協力お願いいたします」
自宅アパートの扉の前で、筒見はサラギに心からの笑顔でお礼を述べ、改めて頭を下げて今後のことを依頼した。
「了解しました。ではまた後程お迎えに上がります」
「あ、サラギくん、待って。ナナちゃんと仲直りできるように、いいこと教えたげる」
立ち去ろうとしたところを呼び止められたサラギは、筒見にちょいちょいと指先で誘われるがままに素直に身を屈めた。
そこで筒見は背伸びして耳打ちする――と見せかけ、その頬に素早くキスをした。
「…………おまじない! これで百人力だよ!」
唖然と固まっていたサラギだったが、状況を理解した途端、真っ赤になって抗議した。
「う、嘘です! こ、こんなまじない聞いたことありませんよ!? はしたない真似して、あなたという人は……ってちょっと、話はまだ……!」
「近所迷惑ですよ、サラギさん。若い娘のお宅の前をいつまでもうろうろしないで下さいね〜。じゃ、おやすみ!」
くちびるを受けた左頬を押さえ喚くサラギに、とどめとばかりに投げキスをくれてやると、筒見はケラケラ笑いながら扉を閉めた。
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