12.決別


 後ろに捻り上げられたそいつの手から、小型のカメラが落ちる。転がってきたそれを靴底で踏み潰し、七瀬ななせは静かに尋ねた。



「私でないことは確かだね。で、それ誰」



 何者なのかは薄々勘付いたけれども、一応確認のために聞いておかねばなるまい。


 サラギは捕まえていた人物を、奥の突き当たりの壁に向かって無造作に放り投げた。壁際に並ぶポリタンクが、中身のゴミを撒き散らしながら音を立てて転がる。


 突然の暴挙に、そいつは小動物じみた鋭い悲鳴を漏らした。サラギは軽く首を傾げてから、七瀬に微笑みかけた。



筒見つつみさんを悩ませていた方々ですよ。どうやら私にも用がおありのようでしたので、こうしてお話を伺おうと考えた次第です」


「……方々?」



 七瀬が訝しげに眉を寄せる。するとサラギは蹲り震えているその人物に近付き、マスクと帽子を取り払った。慌てて顔を伏せようとしたが努力も虚しく、サラギに長い髪を掴まれ無理矢理上を向かせられる。


 驚いたことに、そいつは二十代中盤の女性だった。



「仕事帰りの筒見さんを送っていった日から、標的を私に変えたらしく、毎回毎回日替わりで別の方がやって来るんです。皆様、揃って私の魅力に参ってしまったのでしょうか……いやはや、人気者とは大変なものですな」



 七瀬が小さく息を飲む。呑気な台詞とは裏腹に、口元に湛えた微笑に甘さはなく、この上なく冷ややかだったからだ。



「筒見さんは……このこと、知ってるの?」



 湧き上がる嫌悪感を何とか堪えて問うと、サラギは切れ上がる眦を側め、危険な光の灯った琥珀色の瞳を七瀬に向けた。



「何故知らせる必要があるんです? 皆様、この私に会いに来て下さってるんですよ?」



 サラギが目を逸らしている間に、女性は隙を突いて逃げようとした。しかし、あっさり抱き留められてしまう。


 路地入口付近にいた七瀬は、二人に近付こうとして――立ち竦んだ。



「私も男ですから、若い女性が相手だと心が躍りますな。さあ、色々お話しましょう。まずあなたの目的は?」



 この上なく優しくこの上なく愉しげな声と共に、ゴギ、と耳を覆いたくなるような音が響く。


 背を向けたサラギに暗黒の帳の如く隠され、女性の姿は七瀬からは殆ど見えない。それでも激しく躍る茶色の髪が、彼女を襲う苦痛を強く訴えていた。



「おや、寡黙なのですね。奥床しいのは結構ですが、質問に答えてくれなくては困りますよ? もしかして、お腹が空いてるんですか? 奇遇ですな、私もです。では一緒にお食事でも……」


「やめろ」



 思わず七瀬は声を上げた。ぴくり、とサラギの肩が動く。続いて、女性が崩れ落ちた。


 今度こそ駆け寄り、七瀬は彼女を抱き起こそうと腕を伸ばし――しかし、その手はすぐに遮られた。



「黙っているようにと言ったはずです。ここはあなたの出る幕ではありません、下がりなさい」



 七瀬の手首を掴んで阻止したサラギは、もう笑っていなかった。


 彼の全身から発せられる刃物じみた空気を間近に受け、七瀬は皮膚が総毛立つのを感じた。掴まれた手首を振り解こうとするも、一ミリたりとも動かせない。恐ろしく強い力だ。



 七瀬は凍り付いたまま目だけを動かし、苦悶の呻きを漏らしながら肩を押さえのたうち回る女性を見た。どうやら左肩を砕かれたらしい。



「……逃げろ!」



 一喝するが早いか、七瀬はサラギの膝横を狙って下段蹴りを入れた。思わぬ不意打ちに、サラギが蹌踉めく。


 掴まれていた手首が解放されると七瀬は直ぐ様女性を引き起こし、叩き出すようにして背中を押した。しかし、女性は身を苛む苦痛のせいでなかなか動かない。背後に、サラギが立ち上がる気配。


 考えるより先に、七瀬は更に彼の顎先目掛けて上段回し蹴り、続けて鳩尾に中段突きを食らわせた。



「早く行け! こいつはキレると何しでかすかわからない危険な奴だ! わかったら二度と関わるな!」



 立ち塞がる七瀬の向こうで片膝をつき、垂れた黒髪の隙間からこちらを睨むサラギの瞳は、凄絶な狂気に満ちていた。


 それを見た女性も底知れぬ恐怖を感じたのだろう、転がるようにしてその場を立ち去っていった。



「…………どういうつもりですか」



 蹴られた拍子に切ったらしく、くちびるに滲む血を拭いつつサラギが問う。


 問いではない、責めているのだ。


 そう理解できたからこそ、七瀬は答える代わりに立ち上がった彼の頬を平手で打った。


 それでも、サラギが彼女に落とす目付きは変わらない。ひどく冷淡な視線は、彼が少なからず憤っていることを言葉以上に顕著に伝えた。



「筒見さんがこんなことしろと言った? お前が頼まれたのは『恋人役』だよね? なのに状況を知らせもしないで、おまけに筒見さんに迷惑かけるような行為をしようって? ふざけるのも大概にしろ。誰がこんなこと許すか」


「ほう…………私に、指図する気ですか」



 サラギの口角が吊り上がる。笑みを模してはいるものの一切の感情も温度も感じられない、徹底的なまでに凶々しい表情だった。



「抜かせ、けだもの



 しかし七瀬は怯まず、寧ろ侮蔑を露わにした眼差しで迎え撃った。



「飼い主がペットに指図して何がおかしい。飼われたいなら飼われる覚悟をしろって言葉も忘れたか、身の程知らずの畜生が。そんなにてめえのプライドが大切なら、勝手気儘な野良に戻って、誇りとやらを食い扶持に自由を満喫しろ」



 そして踵を返し、路地の出口へと向かいながら背中越しに淡々と続ける。



「……お次は精々、召使に成り下がって下さる心優しい飼い主を探して。私にそれを求めてたんなら、残念ながら見込み違いの期待外れだよ。そんなわけで、お互いこれにてお役御免だ」



 振り向きもせず絶縁宣言した七瀬の後ろ姿を、サラギは呆然と眺めていた。



 足音が遠ざかり、やがて彼女の姿も気配も消え失せてしまうと、残されたのは今夜の夕食が詰め込まれたコンビニ袋と薙ぎ倒されたゴミ箱、そしてサラギと静寂だけとなった。




「…………小娘が」




 寂然たるしじまを裂いたのは、憎悪すら滲ませた忌々しげな呟きだった。



「全く小賢しい、嫌な娘だ。しかしそれでこそ、選んだ甲斐があるというもの。問題は、これからどうするか…………やれやれ、弱った事態になりましたねえ」



 琥珀色の瞳は依然として暗く澱んだままだったが、サラギは言葉通り、心底困ったように口元に手を当て眉を寄せた。

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