10.目付


 蝉の大合唱とは、誰が呼んだのか。


 耳鳴りの如く鼓膜奥を不快に揺らす雑音の一つ一つが、各々好き放題に喚き散らしているだけの断末魔の悲鳴。それを歌に例えて季節の雅扱いするなんて、全く馬鹿げている。


 真っ青な空の下、眩く萌ゆる緑の木々の輝きに目を向け、分厚い窓越しにも伝わる阿鼻叫喚の音声を聞きながら、七瀬ななせはそんなことを考えていた。



「お待たせしました、七瀬様。無事了承を得ましたので、これまで同様、こちらのカードをお使い下さい」



 初老の紳士が、ピローケースに乗せたカードを差し出す。七瀬は視線を向けもせず、薄くくちびるを開いた。



「今回は随分と早いね」


「はい。今回はただの更新ですので、前回のような盗難といった非常事態とは訳が違います。とはいえあの時は先方と連絡が取れず、対処が遅れてしまったのはこちらの失態。その節は大変申し訳ありませんでした。どうかお許しを」



 綺麗なロマンスグレーの頭を下げ、男は丁寧に謝罪の言葉を口にした。



「この度はその件を踏まえ、前もってそちらでお呼びになったテーラーに確認を取らさせていただきました。失礼かとも思いましたが、あなた様にもしものことがあってはと考え行動した次第です」



 なるほど、使途不明金があれ程あったにも関わらず相手がすんなりとカード更新に応じたのは、彼の活躍であったらしい。


 春先にひったくりに遭って連絡した時は一週間程度待たされたのだけれども、そのことをまだ気に病んでいらっしゃるようだ。


 七瀬はカードを取ると、財布に仕舞おうとバッグに手を伸ばした。すると男が綺麗にラッピングされた小ぶりの箱をそっと黒壇のテーブルに置く。



「お財布も、そろそろ傷んでいる頃かと」


「…………どうも」



 七瀬は新しい長財布に中身を入れ替え、古い方を男に投げ寄越した。



「生活必需品、衣料品の類いは派遣した家政婦達に任せてありますが、不要品もしくは必要なものがあればいつでもお申し付け下さい。その他、困ったことが何なりと。しかし必ず、私を通すという約束だけはお忘れなく」



 珍しく執拗に念を押すのは、この前の事件のせいだろう。



 小動物連続虐殺事件の犯人に酷い暴力を受け、また唯一の目撃者として注目されるはずだった七瀬がメディアにも法廷にも出ずに済んだのは、一見物腰柔らかに見えるこの男が影で辣腕を振るったからだ。


 七瀬は一つ頷き、柔らかに身を包む椅子から立ち上がった。



「表にタクシーを待たせております」


「そう、なら歩いて帰る」



 七瀬はそう告げると応接室をすり抜け、彼の事務所を後にした。



 外に出た途端、心地好い温湿度に慣れた肌を夏の熱気と陽射しが覆い、じわじわ灼き焦がす。急速な温度変化に眩む頭に、発狂せんばかりの蝉の絶叫が響き渡る。


 それでも、あの男が呼んだと思われるタクシーに乗り込む気にはならなかった。


 一応、弁護士という肩書を持つ『お目付け役兼身元保証代理人』に対して、七瀬が出来る精一杯の抵抗といえばこの程度だった。




 サラギを借り受けて三日。


 筒見つつみは本来の明るさを取り戻し、これまでと同様、いやこれまで以上に生き生きとした笑顔を見せるようになった。



「それでね、超おっかしいの! フォークもスプーンも折っちゃったんだよ? でどうすんのかと思えば、持ち手を箸にして食べてんの。も〜、いっつもこんなだから笑い過ぎて腹筋割れてきたよ。いっそダイエット本でも出そうかな?」



 燦然たる光を浴び絢爛に咲く向日葵のような朗らかな表情と声を受け続けた七瀬は、逆に強過ぎる紫外線に萎れる雑草の如く肩を落とした。



「……どうした、ナナちゃん。具合でも悪い? それとも今頃愛梨ちゃんの可愛さにやられたか? ナナちゃんもあたしの恋人になりたくなった?」



 手書きポップを描く手を止めて、筒見が脳天気に尋ねる。先にラミネーターにかけた分を鋏で切り分けながら、七瀬は思い切り眉を顰めてみせた。



「違う。筒見さんがあのアホの話ばっかりするから胸焼けしてきたんだよ」


「え? そうだった?」



 不思議そうに小首を傾げるところから見るに、どうやら無意識だったらしい。



「そうだったよ。仕事中くらいはアレから解放されたいのに、嫌がらせかと思って軽くめげた。そんなに気に入ったんならあげる。言っとくけど、クーリングオフは受け付けないからね」



 七瀬がしっしっの要領で甲を向けた手を振る。すると筒見は慌てふためき、ポニーテールごと首をぶんぶんと横に振った。



「いやいやいや、無理無理無理! 貧乏学生のあたしに、あんな底無し胃袋養えませんって。あ、でも……」



 そこで言葉を区切り、彼女ははにかむとも申し訳なさげともつかない曖昧な笑みを浮かべ、上目遣いに七瀬の顔色を窺いつつ、続きを口にした。



「もう暫く、送迎お願いしていいかな? いなくなったとはいえ、まだ不安なんだ。でもナナちゃんが嫌なら、もうやめとくよ」



 サラギに迎えに来てもらったその初日、バイト明けの真夜中に遭遇して以来、例のおかしな人物は現れていないという。


 しかし筒見の言う通り、この二日ばかり姿を見なかったからといって安心するには早いと七瀬も思っていた。



「寧ろ大歓迎だよ。あんな気持ち悪い奴でも役に立つなら幾らでも使って。いっそこのままずっと送迎係にしときなよ」


「ずっとは悪いよ〜。てかサラギくんのどこが気持ち悪いの? そりゃちょっと変わってるけどさ、面白くて優しくて礼儀作法もしっかりした好青年じゃん。学校の皆も羨ましがってたよ、どこであんなすごいイケメン捕まえたのって」



 学校で普段仲良くしている女友達全員から質問攻めに遭い、大層辟易したことを思い出し、筒見が含み笑いを漏らす。



 だが――七瀬は、急速に潮が引けたように一切の感情を排した、静かな声でゆっくりと呟いた。



「…………筒見さんには、そうなんだろうね」



 そして束の間止めた手を動かし、黙々と作業を再開する。


 彼女の言葉の意味がわからず、筒見は一瞬固まった。けれども気を取り直して別の話題を持ち出し、また雑談に花を咲かせる。


 ここで黙ってしまえば、相手の無言の空間に飲み込まれ手も足も出なくなる――彼女との一年近くの付き合いで、学んだことの一つだった。

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