9.助言
ミルク色の湯に体を沈め、
サラギと一日を一緒に過ごした彼女は、彼から聞いた様々な事情を伝えると共に、まるでコミュニケーションを取ろうとしない七瀬を叱咤した。サラギを猫として受け入れたのなら、彼を猫として可愛がらねば飼い主失格だ、と。
確かに環境だとか躾だとかに囚われて、肝心な部分を失念していたように思う。
筒見や
まずは初心に帰ろうと、七瀬は防水カバーをかけた『かわいいニャンコの育て方』を開き、読み飛ばしていた第一章『ニャンコがおうちにやってくる』に目を通した。
猫の入手と選び方の項は時既に遅しなので飛ばし、猫との相性や性格ごとのスキンシップの取り方を今一度見直す。
やんちゃ、ものしずか、おおらか、おくびょう、いっぴきおおかみ――サラギがどれに当て嵌まるかはわからないが、基本は『自由にする』『構う』を猫の機嫌を窺いつつ適度に織り交ぜ『飼い主のことを教えて敵意がないことを示す』ことが大切なのだそうだ。
「構う……教える……敵意がない…………」
七瀬は独り呟き、本を閉じて湯から上がった。もっと読んでいたいのは山々だが、これ以上長湯したらのぼせてしまう。それに考えるより実際行動する方が分かりやすい。
「あ、ナナセさん。お風呂、上がったんですか? ちょうど良かった、今からテレビでお馬さんの特集が始ま……って、どうしたんですか!? ふふふ、服忘れてますよ!?」
下着姿でリビングに現れた七瀬を見るや、サラギは焦り狂い慌て狼狽え、ついにはソファから滑り落ちてしまった。
七瀬は邪魔なテーブルを足で退かして彼の真ん前に立つと、くるりと一回転し、それから唖然としている顔面目掛けて鋭い正拳突きを放った。
「…………な、何なんですか? 私、何かしました? だったら謝ります、謝りますからそんなに怒らないで下さい!」
鼻先で停止した拳を見つめ、浅い呼吸を吐きながらサラギが泣きそうな声で訴える。
「いや、何もしてない。武器も敵意も持ってないってとこを見せただけ。それと」
七瀬は拳を引っ込めると、もう一度回転してみせた。
「私には模様がない。それを教えとこうと思って」
サラギは片手で顔を覆い、がっくりと肩から項垂れた。
「…………筒見さんに、何か言われたんですね」
「有り難い助言を賜った」
フローリングにへたり込むサラギの前に腰を下ろし、七瀬は彼の髪を優しく撫でた。
「私に動物は飼えないって言ったよね。世話なんて出来ないって。それでもいいってお前は言ったけど、全く努力しないのは違うと思うんだ。飼い猫を大切にしない飼い主なんて、飼い主じゃない。だから、少しずつ可愛がる努力してみるよ。生き物飼うなんて初めてだし、可愛いとも思えないし、何をしたら喜ぶかも見当つかないから本当に手探りになるけど」
「…………私の喜ぶこと、ですか?」
顔を覆い俯いたまま、サラギが低く呟く。
「うん。何かあるなら教えて」
また腕をくれと言われたらどうしようとも考えたが、七瀬は素直に頷いた。
「だったら今すぐ服を着て下さい! 年頃の娘がいつまでも何て格好してるんですか、はしたない! お願いします、このままでは目を開けられません。楽しみにしていたお馬さんの番組が終わってしまいます……!」
しかし、彼の切実な願いは七瀬の想像を遥かに超え、非常に易いことであった。
「あっははははは! ナナちゃん何やらかしてんの!? 天然か? 天然なのか!? ファー!!」
夜明け前の静かな街に、筒見の豪快な笑い声が響く。
約束通り、彼女がバイトを終える午前三時前にサラギは迎えに来た。やや憔悴気味だったので眠いのだろうと思っていたら、七瀬が裸同然で、寸止め正拳演舞を披露したと打ち明けられたのだ。こんな愉快なこと、近所迷惑だと怒られようが笑わずにいられるか。
「笑い事じゃありませんよ……全く女子たる者、恥じらいも持たないでどうするんですか。前から思ってましたが、この頃の女性は肌を露出し過ぎです。筒見さん、あなたも例外ではありませんよ? いえ、あなたは特に酷いですね。そんなに肩やら足やら出して、体の線も丸見えじゃないですか。もっと品のある格好をなさい」
没落したとはいえ流石は名家の生まれ、随分と古風な考えをお持ちらしい。
キャミソールにミニスカという夏の定番スタイルは健康美溢れる筒見の肢体を更に魅力的に彩っていたが、サラギはさも見苦しいと言わんばかりに眉をひそめ、こんこんと説教を始めた。
ついでとばかりに巻き添えを食らい、内心面倒臭いと思いながらも筒見はえへへと笑って誤魔化していたが――不意に、その笑みが固まった。
「サラギくん……後ろ、いる。曲がり角のとこ」
急に声が小さくなったのは、相手に気取られないよう意識したからではない。
七瀬には強気な発言をしてみせたが、本当は怖いのだ。存在を認識しただけで、こんなにも息苦しくなるくらいに。
「…………男性、ですね。三十代、いえ四十代程でしょうか。小柄のようですが、そこそこ体力がありそうな感じですね。せっかくですし、捕まえてみます?」
視力が並外れて良いらしく、サラギは暗闇に身を潜める人物の大まかな容貌を伝えると、隣の筒見に問いかけた。
筒見は少し考えてから首を横に振った。
「ううん、今日はいい……明日からの出方次第ってことにする。あのさ……ちょっと腕借りて、いい? 何か足、へたっちゃって。バイト疲れかな?」
何とか言葉を吐いて、無理矢理に笑顔を作る。見上げた先には、サラギの柔らかに凪いだ目が待ち受けていた。
「いいですよ。どうせなら恋人らしく、お姫様抱っこしましょうか?」
「そ、そこまではいい! いくら何でも恥ずかしいわ! パンツ見えるし」
「おや、恥じらいが芽生えましたか。良い傾向ですね、その調子です。清く正しく美しい大和撫子を目指しなさい」
サラギはそう告げると、筒見に向けて恭しく右手を差し出した。
「サラギくんって……モテそうでモテないタイプだよね、間違いなく」
筒見は彼の腕に体を凭せかけ、そっぽを向いた。
それから二人は、背後の影を振り切るように話に花を咲かせ、『ここが変だよ、男VS女』『己の目指す最高の男、また最高の女とは?』『自分の理想と世間で持て囃されるタイプとのギャップ』等々、数多くのテーマについて熱く語り合い、筒見の自宅アパートまでの道程を、身を寄せながら歩いた。
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