7.委託
「二人共、酷いですよ……何なんですか、あの言い草は。わざわざ見に来て下さったのかと思えば」
「だって、近くで見たら更に不細工だったし」
「あたしもこの暑い中、ペン子と乱舞はちょっと」
「……嫌な感じで息ぴったりですね、あなた方」
仕事はチラシを配り終えた時点で即終了とのことだったので、あの後すぐにサラギはペン子を事務所で脱ぎ捨て、二人の元へ戻ってきた。それから空腹を訴えるサラギの要望に応え、三人でファミレスにやって来たという次第である。
「ご馳走様でした。それで私にお話とは何です?」
メニューの品を全制覇する勢いでオーダーし、デザートまで食べ尽くすと、漸くサラギが本題に移った。
彼の怒涛の食べっぷりに引き攣りつつも、筒見は隣の七瀬をちらりと見遣り、お願いしますと目で合図した。
「えっと、筒見さんが彼氏……彼女? どっちでもいいか、とにかく恋人になってほしいんだって」
「ちょバカ、違う! それじゃあたしがナナちゃん介してサラギくんに告白してるみたいじゃん! 即刻訂正してください!」
筒見にパーカーの襟元を掴まれメトロノームよろしく激しく揺さぶられながら、七瀬は言い直した。
「訂正。恋人の振りをしてほしいんだって」
「…………私に、ですか?」
首を傾げ、サラギは筒見に視線を向けた。
何度か顔を合わせているとはいえ、筒見は彼と二人だけではまともに話したこともない。精々が知人程度、顔見知りレベルといった間柄だ。
サラギの訝しげな眼差しが『そんな相手に面倒事を頼もうなんて厚かましい』と言っているように感じられ、筒見はいたたまれなくなって俯き、小さく頷くしかできなかった。
「筒見さん、変な人に狙われてるらしくて。サラギくんならその変な人よりも間違いなく変だから、諦めてくれると思うんだ。いざとなったらペン子になって誘惑すれば流石に逃げるだろうし」
代わりに、七瀬が説得を試みる。
失礼にも程がある言い方だったがサラギは別段怒るでもなく、なるほど、と素直に頷き、再び筒見に向き直った。
「お話は分かりました。しかし振りをするだけなら、何も私でなくても構わないのでは? 筒見さんの友人の方ではいけないのですか?」
「うん……駄目なの」
筒見は目を伏せたまま、答えた。
「あたし、こういう時に頼れる男友達っていないんだ。どの人も仲良くなったら、何か変な雰囲気になっちゃうんだよね。あたしが軽く見えるせいかもしれないけど、二人きりになると油断も隙もないっていうか、そういうのばっかで。そんなのに彼氏の振りしてくれなんて言ったら、後々大変なことになるよ」
彼女の言わんとすることは、七瀬にも理解できた。
明るく優しく気が利いて、おまけに容姿も麗しい――こんな娘に頼られ親密になれば、誰だって有頂天になるだろう。店の常連でも、筒見に言い寄る者は多い。毎回上手く躱していたけれども、内心辟易していたに違いない。
「その点、サラギくんは大丈夫かなって。変なことする人には見えないもん。それに学校の皆にも彼氏がいるって言って紹介しちゃえば、
筒見は、この手の勘には絶大な自信を持っていた。これまで『男というもの』に散々な目に遭わされてきたのだから、見る目が養われるのも当然だ。
また冗談めかして笑ってみせたけれども、学校の知人の中に犯人がいる可能性も考えていた。
そこで、一番自分と縁が浅く尚且つ『男として安全』そうな、サラギを選んだのである。
「そうですね。あなたの仰る『変なこと』が性的な意味での問題を指すのなら、間違いなく」
その言葉に、七瀬の眉が軽く歪む。それに気付くとサラギは薄く笑い、謡うように告げた。
「いいですよ、引き受けましょう」
愉しげでありながら面白がっているようでもあり、また良からぬことを企んでいるとも受け取れる、何とも不可解な微笑を向けられると――――筒見は感謝の言葉を述べながらも、鎌首を擡げる黒い不安に、胸が粟立ちさざめくのを感じずにはいられなかった。
申し訳程度に夕食を腹に詰め、入浴し、適当な時刻になれば眠りに就く。七瀬の夜の時間の過ごし方は、この数年ずっとこのように決まっていた。
変わったことといえば愛読書ができたこと、そして風変わりな男を猫として飼い始めたことくらいだ。
それでも基本スタイルに影響はほとんどなく、その夜も彼女は第二章から第三章へと読み進めたところで本を閉じ、ソファーの定位置から立ち上がった。
「おやナナセさん、もうお休みですか?」
地上波初放映という大作アクション映画に熱中し見入っていたサラギが、すかさず声をかける。七瀬は無視して通り過ぎた。真夏の昼間に出歩いて体力を消耗したせいか、久々にはっきりとした眠気を催したのだ。
キッチンで使ったグラスを洗っていると、いつの間にやらサラギがキッチンカウンターの前にいるのに気付き、七瀬は顔を上げた。
「何か用? 明日の話ならもう済んだよね。まさかもう忘れたの? アホだから」
「いえ、朝七時に筒見さんのお宅へ伺えば宜しいんでしたよね。それで……一つ質問が」
さっさとしろと目で訴える七瀬に、サラギは例の取り留めのない笑みを返した。
「彼女には、どの程度のものを要求すべきでしょう? 私は筒見さんという方をまだあまり存じませんので、ナナセさんに聞くのが一番手っ取り早いかと思いまして」
そういうことか、と七瀬は納得した。道理であっさりと了承したわけだ。
サラギという男は、貸し借りをきっちりと清算しなければ気が済まないきらいがある。良い意味でも悪い意味でも、施し施されたことに関しては、相応の返礼を求め与える人間なのだ。
重い溜息を一つ吐いてから、七瀬はサラギを真っ直ぐ見上げて言った。
「筒見さんはお前の友達じゃない、だけど私の友達だよね。だから彼女は私に相談して、依頼を委託した。こうすればどう?」
「つまり、ナナセさんがお礼をして下さる、と?」
七瀬が頷く。するとサラギは口元に手を当て、幾らか思案してからくちびるを吊り上げた。
「では…………あなたの左手を下さい」
予想外の提案に、七瀬は包帯が取れたばかりの自分の左手に目を落とした。
「心配しなくても、ナナセさんは右利きでしょう? 美味しいと思うんですよ……いえ、美味しいに決まっています。昨今は老若男女問わず、無駄な養分を摂り過ぎていたり化学薬品で汚れたりしているようですが、ナナセさんは違う。きちんと栄養面を管理されておりますから、肉も内臓も血液も美しいはず。ええ、お肌を見ればある程度はわかります。そんな若い娘をいただける機会なんて、そうはありませんからねえ」
薄い裂傷に似たくちびるのラインを、赤い舌先がなぞる。
食べる気なのだ、と七瀬は呆然としたまま理解した。
「いいよ、どこまで?」
しかし七瀬の返答は、財布に余った小銭を分け与えるが如く、至極あっさりとしたものだった。
「半端なところでちょん切るのはやめてね。手術が大変になるから。ちゃんと関節で区切って。でも、筒見さんを迎えに行くのだけは忘れないでね」
差し出された左腕の延長線上にある、何の意志も持たない造りものめいた淡い鳶色の瞳を、サラギもまた無表情で眺めていた。
が――しかし、すぐに吹き出す。
「冗談ですよ、ナナセさん。本気にしないで下さい。全く生真面目ですねえ……そういう素直なところは可愛いと思いますけれど、少しは用心しないと悪い人に騙されてしまいますよ?」
悪戯が成功した子供のように無邪気に笑うサラギに目もくれず、七瀬は浄水器からグラスに水を注いで安定剤の錠剤を飲み干した。
「そうだね。既に騙されて、部屋に居座られてるくらいだからね」
そして怒りも呆れもない静かな声で嫌味を返すと、寝室へと消えていった。
くすくす笑いながらその後ろ姿を見送ったサラギだったが、いつしかその笑顔は酷薄で無慈悲な冷笑へと変質していた。
『……は、……ない』
掠れた細い声が、告げる。
酒焼けして嗄れたたハスキーだったはずなのに、その言葉だけは驚く程濁りなく、明瞭に耳朶を突き抜けた。
『……、……、……、……』
きつく掴まれた背中に苦痛が走る。その痛みに酔いながら抱き締め返した両の腕に、消えて行く体温を刻む。
視界が白から赤へ、赤から黒へと徐々に移り変わっていく。その様も、しっかりと瞳に脳に灼き付ける。
『ァ、……、……、……』
弱々しく囁き続けるあなたの声、腐れ崩れるあなたの姿。
そして饐えたあなたの香りも、生臭いあなたの味も、その全てを私は決して忘れない。
『ア、……、……、……』
大丈夫、私は此処にいる。あなたから一番遠いこの場所に、出来る限り立ち続ける。
それがあなたの遺志であり、私の贖罪だから。
『ア、……、……、キ』
『ア、カ、……、……』
『ア、カ、ツ、キ』
大丈夫、心配要らない。
私は当分、其処に行くことはない。たとえ死したとしても、同じ場所には辿りつけないかもしれない。
何故なら私は、あなたとは違うから。被害者と加害者が共にあれる世界なんて、どこにもなさそうだから。
でも、今だけは傍にいて。名前を呼んで――――お母さん。
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