5.握飯


 自宅マンションに帰宅した七瀬ななせを玄関で迎えたのは、サラギの力無い笑顔と盛大に響き渡る野太い腹の音だった。


 そこで七瀬はやっと、大切なことを思い出した。



「あ……ご飯買ってくるの、忘れた」



 その言葉を耳にした途端、サラギはこの世の終わりのような顔をして膝から崩れ落ちた。



「……いえ、我慢しましょう。疲れているナナセさんに我儘を言ってはいけませんからね。今夜はいつもより遅かったですし、お仕事が立て込んでいたのなら、うっかりしていても仕方ありませんよ」



 そう言って何とか立ち上がったが、サラギの腹の悲鳴は止まらない。


 七瀬は彼を素通りすると、リビングと一続きになっているキッチンでコーヒーを淹れた。のろのろとこちらへ近付いてくる空腹を激しく主張する雄叫びが、コーヒーメーカーの音をも掻き消す。


 放っておいても鳴り止まなさそうだったので、七瀬は冷蔵庫やら棚やらを漁り、何か食べられる物はないかと探した。



「え……何ですか、これ。もしかして、握り飯、というやつですかね?」



 大皿に鎮座する不格好な白米の塊を指差し、サラギが不思議そうに尋ねる。



「下手で悪かったね。私だって、何だこの謎の物体Xって思ってるよ。料理なんて滅多にやらないんだから、これで我慢して」



 皿に並んでいるのは、発掘した四袋セットのレンジ飯に、冷蔵庫にあった食材や冷凍食品を詰め、取り敢えず握ってみた成れの果てだ。料理経験が豊富でない七瀬にはいまいち力加減が掴めなかったらしく、力強く潰されたものから逆に弱過ぎて崩れたものまで、様々な三角錐郡が朽ちかけた古代オブジェのように聳えている。


 しかし、サラギは一転して琥珀色の瞳を輝かせ、七瀬に笑顔を向けた。



「まさかと思いましたが、やはりナナセさんのお手製でしたか。下手だなんてご謙遜を、素晴らしい出来ではありませんか。こんなに個性豊かで造形美に満ちた握り飯は、初めてお目にかかりますよ。ナナセさんが手料理を振る舞って下さるなんて、夢のようです。食べるのが勿体無いですねえ」


「さっさと食べてよ。お腹うるさい」



 いちいち相手をするとキリがないので、訳のわからぬ讃美を受け流し、七瀬はコーヒーを飲みつつ適当にあしらった。



「ありがとうございます。ではお言葉に甘えて、いただきます」



 そう言ってサラギは丁寧に合わせた手を、塊に伸ばした。


 室内を照らす白色光が、開いた口腔内に躍る赤い舌と尖った犬歯を煌めかせる。悍ましいものを見た気がして、七瀬は目を逸らした。



「何と、ほうれん草とキュウリが出てきましたよ! これは白桃? おお、付け合せにチョコレートとは……どれも斬新な具材ですねえ」



 サラギは細い体躯に見合わぬ勢いで、次々と食糧を平らげていく。七瀬は視線を背けたまま、今しがた覚えた戦慄の名残を振り切るように彼に話しかけた。



「サラギくんって確か、元は大層裕福な暮らししてたって言ってたよね? どんな生活してたの、オニギリくらいで大袈裟に騒ぐって」


「…………今、何て?」



 サラギの顔から、笑みが消える。


 何について尋ね返されたのか分からず、七瀬は取り敢えずもう一度繰り返した。



「あなた様の高貴なる食生活には、オニギリという下等な料理は存在しなかったのですか? って聞いたの」


「オニギリが……食物……?」



 サラギが眉を顰める。


 そこでやっと、七瀬にも彼の困惑する理由が理解できた。



「お前が手に持ってる、それ、オニギリ。サラギくんのところじゃ握り飯が通称みたいけど、この辺じゃそんな呼び方する人いないよ。コンビニでも表記はオニギリだから」



 サラギは驚きと戸惑いに満ちた表情で、何度も瞬きしては七瀬と食べさしの白米を見比べた。



「これを、オニギリと言うんですか? 握り飯がオニギリ? 皆、そう呼んでるんですか?」


「そうだよ。また一つ賢くなったね、良かったね、その調子で頑張ってね」



 やる気なく鼓舞してやると、七瀬は愛読書『かわいいニャンコの育て方』を読み始めた。


 第一章『ニャンコと暮らす心構えをするニャ』はクリア済と見なし飛ばしたけれども、第二章『ニャンコのために住みやすい環境を作るニャ』を完了させるのはなかなか難しそうである。寧ろ、環境を調える以前の問題だ。


 これまでどういった生活をしてきたのか、サラギの世間知らずはとんでもないレベルだった。


 知っていることもそれなりにあるのだが、それも知識のみであって、経験は殆ど皆無といった状態。


 例えば、家電製品は何に使うのかは分かっていても、使い方が分からない。最新型ともなれば、最低限度しか持ち合わせていない知識も追い付かず、大画面の薄型テレビの画質に嬌声を上げ、室内を自動で清掃する掃除機を見て怯え、ウォッシュレットやジェットバスに感涙するといった具合だ。パソコンやタブレットに至っては、最早何をする道具なのか、説明しても理解不能のようだった。


 また家事の概念はあれど、着手したことは一度もないらしい。


 七瀬も自分を世間知らずの部類に入ると思っていたが、ここまで酷いと上には上がいるものだと呆れるより感心してしまった。



 しかし相手は人の姿をしていても、飼い猫なのだ。


 大飯喰らうだけが取り柄の癒しも糞もないペットだが、了承してしまった以上、七瀬に文句は言えない。



 それでも、オニギリという単語をいちいち説明しなければならない等、面倒臭いことは多々ある。



 同時に、触れていいのか迷うことも。



「これ、いいですねえ。着慣れた格好に近いので落ち着きます。何から何まで、本当にありがとうございます」



 届いたばかりのバスローブの紐を締めながら、サラギが嬉しそうに笑う。


 寝間着としてジャージやスウェットを与えてみたのだが、どうにも落ち着かない様子だったので訳を聞いてみれば、生まれてからずっと和装だったため、洋服は家を出た時に着用していた黒いフォーマルスーツが初めてだったのだという。


 しかも、所有者が力任せに手洗いして強引に着倒していたそのスーツは、シャツも含め、腕の良い職人が手作業で仕立てたフルオーダーメイドの高級品だった。


 本人に聞いたのではない。見兼ねて七瀬が同型の品を注文しようとした時に、現物を見た業者から教わったのだ。


 やはり彼は、格式高い家柄の出身なのだろう。


 けれども箱入り御曹司や隠し胤といった存在とは違う、と七瀬は確信していた。想像でしかないけれども、サラギセラという男は『敢えて世間から隔離』されていたのではないかと思うのだ。


 だからといって、七瀬は本人に問い質すような真似はしなかった。彼が話さないのなら聞くべきではない。彼の方も色々と疑問に思うことは多々あるだろうに、何も聞かずにいてくれる。この絶妙な距離を保ってくれる稀な人物だからこそ、七瀬は一緒に暮らすことを受け入れたのだ。



 もしかしたら、二人は似た身の上同士なのかもしれない。だが、どちらも語らないのなら、たとえその妄想が正解であろうと、どうだっていいことだ。

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