3.憂慮


「……チッ、いたか」



 総合案内所を通り抜け、エントランスを出てすぐ左側にあるタクシー乗り場に到着すると、七瀬ななせは心底忌々しげに舌打ちを吐き出した。


 初めて会った時に比べると随分と感情表現が豊かになったものだ、と藤咲ふじさきは喜ばしく感じたが、今は医者冥利に浸っている場合ではない。



「ちょっと、七瀬さん! のんびり眺めてないで、猫ちゃん見付けたなら早く保護してちょうだい! こんなところに置いてくるなんて、撥ねられでもしたらどうするの!? 熱中症に罹る可能性だってあるのよ!? それで猫ちゃんはどこ? 無事なの!?」



 熱気で歪む空気をかき散らしながら、来院者を乗せて次々と出入りする車の隙間を見渡し見回し見守りして焦り狂う藤咲を横目に、七瀬は腕を上げて一点を指差した。



「あ、ナナセさん」



 藤咲が視線を向けるとその先に、こちらへと駆け寄ってくる背の高い男の姿があった。


 名前を呼んだところから察するに、七瀬の知り合いらしい。


 そういえば又聞きではあるが、藤咲はこの頃彼女に新たな友人ができたという話を耳にしていた。きっと彼がその友人で、七瀬は彼に猫を預けていたに違いない。


 あれこれ尋ねられるのが面倒で言い淀んだのだろうか、相手の言葉が足りず理解できなかったとはいえ、強く叱責してしまったことを思い返し、藤咲は今更になって情けなくなった。患者の気持ちを汲み取れないばかりか、私情に流され、頭ごなしに怒鳴り付けるだなんて。



「もう用事は済みましたか? おや、こちらのご婦人は……どうかされました? 随分と黄昏れていらっしゃるようですが」



 しっかりと笑顔の仮面で隠したはずの本心を射抜かれ、藤咲は小さく息を飲んだ。思わず男を見つめる。



 年齢は二十代中盤、身長およそ190センチ、体重は70キロ前後。細身で手足が長い。見事な骨格のせいでモデル体型と混同しそうになるが、スーツを形作る肩幅と筋肉は、限界まで鍛え抜かれたアスリートのそれだった。しかし、それにしては突出して発達している部分もなければ無駄もない。


 肉体とは逆に言葉遣い同様、顔立ちは育ちの良さを伺わせる楚々とした雰囲気を湛えていた。すっきりと切れ上がった目元は凛とした気品に満ち、白く繊細な曲線を描く細面はたおやかで、どこか女性的な印象を受ける。世俗から完全に切り離され、何不自由ない温室の中で大切に大切に育てられた、眉目秀麗なる貴族の一粒種。一見すると、そんな風貌だった。



 だが、彼が藤咲に落とす目付きは、好奇心に躍る無邪気な子供のような、観察に徹する怜悧な研究者のような――純真とも不遜ともつかない胡乱なものだった。形良いくちびるに浮かべた微笑みも、優しいようでいて冷ややかで、ひどく取り留めがない。


 精神科医として様々な人間と接してきた藤咲も、こんなにも掴みどころのない者に接するのは初めてだった。ピントが合わないとでもいうのか、人物像を探ろうとすればする程わからなくなっていく。



 ここまでの分析にかかった時間は、ほんの十秒ほど。


 それでもその僅かな間に、藤咲の防御壁ともいえる笑みは消滅し、夏の熱気でもかき消せない怖気が背中を震わせた。



「先生、どうしたの? 気分でも悪い? お前が気持ち悪いからだ。謝れ」


「ええ〜、私のせいですか? そんなに気持ち悪いですかね? やはり、髪を切るべきではなかったんじゃないでしょうか……」



 二人の声に我に返った藤咲は、弾かれた笑みの仮面を慌てて拾い被り直した。



「ああ、ごめんなさい。冷房が効いているところから急に外に出たから、軽く立ちくらみしたみたい。それで七瀬さん、こちらの方は? それから、猫ちゃんも紹介して欲しいわ」



 何とか取り繕うと、七瀬は隣に立つ男を指差して事も無げに言った。



「これ、飼い猫のサラギくん。こちら、主治医の藤咲先生」



 ついでに自分も相手に紹介されたが、藤咲は再び剥がれ落ちた笑顔の面を被ることも挨拶を返すこともできず、硬直してしまった。



「この度ナナセさんに縁あって拾われまして、飼い猫にさせていただきましたサラギセラと申します。ナナセさんの愛猫として精一杯努めてまいりますので、どうぞ以後お見知りおきを」



 呆然とする藤咲の前で、サラギが丁寧にお辞儀して自己紹介する。何から突っ込むべきかわからず、藤咲は取り敢えず根本的な疑問を口にした。



「ええと、でも彼、猫じゃない……わよね?」


「うん、そこが難点なんだ。何やらせても可愛くなくて可愛くなくて」


「見た目に惑わされてはいけませんよ、藤咲先生。大切なのは心です」



 藤咲の問いかけは、揃って二人にあっさりと流されてしまった。



 金目当ての詐欺師なのではないかだとか、体目的の変態かもしれないだとか、下手をすれば命を狙う極悪人の可能性もあるだとか再三説き、彼を飼い猫として傍に置くのは止めるべきだと訴えたけれども、七瀬は興味なさげに生返事を返すだけで、結局うんとは言わなかった。



 それでもこれは、良い傾向なのだろう。


 猫のように擦り寄ろうとしたサラギに『寄るな触るな近付くな、気持ち悪い気色悪い気味悪い』などと口汚く罵り突き飛ばす七瀬など、これまで藤咲は見たことがない。彼女が十六歳の頃から知っている藤咲が出来なかったことを、まだ出会って二ヶ月足らずだというこの男はあっさりやってのけたのだ。


 今はそれほど仲良さげでも楽しげでもないが、これから進展しないとは限らない。ならば間違いなく、彼という存在の到来は喜ばしいはずだ。



 それなのに、藤咲の胸からはサラギセラなる男に対する奇妙な不快感がどうにも拭えなかった。



 不快感? いや、違う。これは違和感だ。



 何故なのかはわからない。だが、彼はひどく不吉な感じがした。この男は良くないものだと、本能が警告音を放つ。優雅で飄々とした容貌の中で口元を彩る形容しがたい微笑は、麗しい外見で獲物を誘う、食中花を連想させた。


 果たして、七瀬は気付いているのだろうか。気付いていて、知らぬふりをしているのだろうか。それとも知った上で、彼を選んだのだろうか。だとしたら、その意図は何なのか。


 藤咲にはそれが一番の気がかりであった。

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