2.叱責


「う〜ん……視界が開け過ぎておかしな感じですねえ。何だか草食動物になった気分です」



 タクシーに乗り込んでもサラギはまだ落ち着かないようで、窓を流れる景色と隣に座る七瀬ななせを交互に見ては俯くといった行為を繰り返していた。


 七瀬は愛読書に視線を集中し、完全に無視の姿勢に入っている。暫くきょろきょろとしていたサラギも漸く諦め、溜息を落としてから七瀬の本を覗き込んだ。


 彼女が熱心に目を通していたのは、第二章『ニャンコのために住みやすい環境を作るニャ』の項目だった。


 走り回るのが大好きな猫に、ストレスを与えない生活空間作りの具体例であったり、猫に危険を及ぼす可能性を取り除くための簡単なリフォームのやり方、便利グッズの紹介等が掲載されている。



「ほう、色々ありますな。ナナセさん、これなど如何です? 潜って遊んだら面白そうですよ」



 サラギがジャングルジムに似たアスレチック型のキャットタワーを指差す。すると七瀬は、その手を素早く振り払った。



「触るな。覗くな。黙ってろ」



 そして顔も向けず、たった三言の命令を下す。仕方なくサラギは柔らかな背もたれと快い揺れに身を任せ、空を仰いだ。


 表情こそ飼い主に遊びを断られ、不満を顕にする好奇心旺盛な猫のようであったが、頭上間近に迫るタクシーの天井を睨める琥珀色の瞳には、闇より暗い幽々たる光が微かに滲んでいた。




 いつも予約時刻丁度に現れる長年の担当患者が、初めて遅れるという異例の事態に、精神科医・藤咲ふじさき杏子きょうこは少なからず驚いた。


 しかし、そんな思いも全て穏やかな笑みで包み隠す。


 能に例えるならば、目の前に座る鉄仮面を纏うた相手はシテ、自分は増女の面を被ったツレだ。生きるという彼女の舞台を支え助け、本来の自分という演目を舞い踊らせる。それが、藤咲の役割であった。



「この前の怪我の具合、大分いいみたいね。ギブスも取れたし、もうバイトに行っていいわよ。でも重いものを運んだりだとか、負担をかける行為はしないこと。あとは……夜道には気を付けてね。またこんなことが起こると心配だし、不安なら昼間のシフトに変更してもらえるよう、私も掛け合うわ」



 検査結果を記した用紙と相手の包帯の巻かれた左手小指を見比べ、藤咲は普段通り冷静に、だが内心はおずおずといった具合に告げた。


 目の前に座る少女はつい二週間前、とある事件に巻き込まれた被害者でもある。小指の骨折も、その時犯人達に拷問まがいのことをされた結果だった。



「大丈夫、気を付けるから心配しないで。それに不安もないよ。全然平気」



 藤咲の提言に七瀬は静かに首を横に振り、平然と答えた。


 どれ程注意深く観察してみても、彼女の言葉に嘘偽りはやはり感じられない。


 頷いてはみせたけれども、藤咲は柔らかな笑顔の裏で、釈然としない思いを燻らせていた。



 七瀬が精神を病んで以来、主治医としてずっとサポートを続けてきたのが藤咲だ。


 彼女の心的外傷は恐ろしく深く大きく、一見改善したように思われても、瘡蓋はおろか止血する気配もない。


 今回の事件で、七瀬は殺されてもおかしくないほど危険な目に遭ったという。折り重なる精神的苦痛に、小指だけでなく心まで粉砕骨折しかねないと恐れ、藤咲はこれまで以上に慎重に彼女の心のケアに努めたのだが――しかし、どうも七瀬はこの件に関しては本当に何ともないようなのだ。


 極度の『死恐怖症』であるにも関わらず。


 本人曰く『突然過ぎて驚くばかりで、恐怖を感じる暇もなかった』とのこと。それが本音である証に、時間が経過してから襲来するかもしれないと恐れていた、フラッシュバックを起こす様子もない。


 どうにも疑問が残るけれども、とはいえ人の心は十人十色、それこそ人の数だけある。例に当て嵌めることなど出来ないものなのだ、と納得する他なかった。



「そう、でも無理はしないでね。何かあったらすぐ連絡して、どんな些細なことでもいいから」



 様々な思いを含んだ吐息混じりに、藤咲が優しく返す。すると七瀬は小さく、そういえば、と漏らした。



「最近、猫を飼い始めたんだ。あんまり可愛くないし、正直気が進まなかったんだけど……行くとこないみたいだったから」



 どうやら彼女は、この自宅療養の間に猫を拾ったらしい。


 藤咲は頬が勝手に緩むのを感じた。七瀬が可愛がっていた野良の子猫の存在を、またその猫が死んだことまでを、本人から伝え聞いていたからだ。


 平静を装ってはいたけれど、ひどく落ち込んでいた彼女の心内を藤咲はしっかり見抜いていた。また、社会復帰の一環として仕事をすることと友人を作ることまで成功した七瀬に、次なる段階として、何か打ち込める対象が必要だと考えていたところでもあった。


 猫という生き物を飼い育てる――傷心を癒しつつ夢中になる対象を得られる、まさに一挙両得の吉報ではないか。



「いいじゃない、私も猫が大好きなの! どんな猫ちゃんかな? ねえ、写真はないの? 是非見たいわ。今持ってないなら次に来た時にでも」


「連れて来た」



 がっつくように身を乗り出して詳細を求めた藤咲は、七瀬の意外な返答に笑顔のまま固まった。



「連れて来たんだ、部屋に置いとくと何するかわかんないから」


「…………病院の、中に?」



 当然、院内は動物の立ち入りは禁止だ。恐る恐る尋ね返してみると、七瀬は軽く眉をひそめた。



「そんな非常識なことしないよ。タクシー乗り場のとこに置いてきた」


「ケージか、何に入れて?」


「まさか。そんなの持ってないし、それにあんな可愛くないの誰も持ってかないよ。ちゃんと待ってるかどうかも怪しいけど、いなくなったらいなくなったで構わないし」



 つまり、彼女はこの夏の盛りの炎天下、タクシー乗り場という車通りの多い場所に、飼い猫をポイと放置してきた、と言っているのだ。


 それを理解するや、藤咲は七瀬を引っ立てて廊下を駆け出した。階下に降りるエレベーターの中で、たらふく説教を食らわせたのは言うまでもない。


 年齢と共に多少衰えはしたものの、整った理知的な顔を鬼の形相にして叱り倒す藤咲の姿に、乗り合わせた人々は何事かと恐れ慄いていたが――それでも、当の新米飼い主は、相変わらずの無表情で受け流すのみだった。

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