ただしい猫の躾け方
1.整髪
明るく照らされた店内には、聞こえるかなしかの静かな音楽が流れていた。
趣向を凝らしたスタイリッシュなインテリアと、気遣いの行き届いたスタッフ達。それらに囲まれ、客は柔らかな椅子に身を預けて楽しげに話しながら、ほんの少し未来の自分の姿を思い描く。
素晴らしく居心地の好い空間。しかし漂う香りだけはやや強く、鼻の奥を刺激する。
「
その声を聞き、出入口の手前にあるウェイティングスペースで本を読んでいた少女が顔を上げた。物も言わず無表情で呼びかけた相手を凝視する様は、吊り気味の大きな目も相まって、音のした場所に視線を送ったまま固まる猫の仕草を連想させる。
そんな彼女が手にしている本のタイトルは、皮肉にも『かわいいニャンコの育て方』――随分と愛読しているようで、厚めの冊子には透明なビニールカバーがかけられ、手製と思しき四葉の押し花を施した栞が挟まれていた。
「あ〜えっと、その、それが終わったは終わったんだけど……申し訳ない。せっかく連れて来てくれたお客様なのに、どうも仕上がりが上手くいかなかったみたいで。恥ずかしがって、トイレに閉じこもって出てこないんだ。今、店長達も説得してるし、僕も責任持ってやり直すから、もう少し待っててもらえる?」
声をかけた青年は、いつまでも黙って見つめ続ける少女――七瀬の視線と無言の圧力に負けて、黙っておこうと思っていた事実を吐いてしまった。
道理で、いつまで経っても彼の後ろから待ち人が現れなかったわけだ。
説明を受け合点がいったところで、七瀬は本をバッグに仕舞い、ソファから立ち上がった。そして青年に近付く。
「
表情同様、淡々とした調子でコントラルトの音声が言葉を紡ぐ。
七瀬を間近に見下ろしながら、しかし水嶋はアッシュグレイに染めた頭の中で、我ながら会心の出来だ、等と全く違うことを考えていた。小造りで繊細な輪郭を彩るピンクブラウンのショートボブも、柔らかさと鋭さが絶妙に混じり合うミックスパーマも、彼が先月施したものだ。伸びたせいで少しバランスの崩れた前髪に鋏を入れたい衝動を堪えつつ、水嶋は彼女を奥にある客用トイレへと案内した。
美容師である水嶋が七瀬と出会ったのは、もう半年以上前のことになる。
既に人気美容師として雑誌や口コミで評判になっていた彼は、毎日忙しく充実した時間を過ごしていた。とはいえ、予約をこなすだけで精一杯という現状に不満もあった。休みの日は仕事のことは忘れると決めていたにも関わらず、街に出て道行く人を観察しながら、こういう髪型が似合うだとかこうアレンジした方が魅力的だとか考えては、己の感性だけで存分に鋏を振るいたいと渇望していた。
そんな折、水嶋は大層残念な子と擦れ違った。
短くするためだけに出鱈目に切ったというような滅茶苦茶なベース、そこから伸び放題となった髪を、適当に纏めて一括り。とんでもない有り様にどんな子かと振り返れば、化粧気はないものの、綺麗な顔立ちをした若い娘だった。
彼女も水嶋が自分を注視していることに気付き、足を止めてこちらを見た。その瞳は何も映していないかのように虚ろで、表情にも感情の類いは全く伺えず、いつか博覧会で見たドールを思い出させた。
何にでも染まる、白の素材を持つ者はそれなりに遭遇したことはある。しかし、全くの無色透明な素材を持つ者を目の当たりにするのは初めてで、気付けば水嶋は彼女に土下座する勢いで頭を下げ、カットモデルになってくれと頼み込んでいた。
以来、七瀬は自分専属の常連となったのだが――今回彼女が水嶋に任せたいといって連れて来た人物は、これまた異色の素材の持ち主であった。
彼女を透明とするなら、そいつは黒一色といった奇問難問。ここ暫く落ち着いていた水嶋の、闘志と称して差し支えない程に熱い職人魂は、久々に熱く激しく高揚した。
なのにその結果がこれだ。
そこに上乗せして、更に水嶋を凹ませたことがある。
「出てこい、この排泄物以下のゴミ野郎。お前のせいで膀胱破裂、肛門裂傷するお客様が多発して迷惑してんだよ。聞こえてんのか、アホに重ねてアホ塗ってアホで煮出した濃縮還元アホ。ちょっと髪ちょん切られたくらいで器が小さいんだよ、アホ。元々ザンバラももんじい頭だっただろうが、アホ。頭の外見気にする前に中身どうにかしろ、アホ」
ドアを叩きながら冷淡に罵詈雑言を並べ立てているのは、水嶋が人形のように儚く透明だとずっと思っていた娘、即ち七瀬だ。
いつも必要最低限のことしか話さず、物静かで大人しい印象しかなかった常連客の初めて見せる一面に水嶋は勿論、スタッフ達も呆然としていた。
「…………だって、そんなこと言われたって恥ずかしいんですよ。こんなに髪を短くしたことなんてありませんし、それに……ナナセさん、本当は長毛種が好きなんでしょう? 知っているんですからね」
少し間を置いて、弱々しい声が返される。すると七瀬は大きく溜息を付いて、ついに最後通告を下した。
「わかった、もう出てこなくていい。お前は今からここに住む、私は晴れて自由になる、これで万事解決だね。じゃ、さようなら」
「え!? いやあの、待って! 待ってください!」
彼女が背を向けるや否や、叫び声と共にドアが開き、そこから弾丸のような勢いで漆黒の細長い影が飛び出してきた。
「何だよ、別に変じゃないじゃん」
がっちりと長い腕にしがみつかれた首を曲げ、頭を確認すると、七瀬は軽く眉を寄せ、簡素な感想を述べた。
俯いていた黒いスーツ姿の男が、恐る恐る面を上げる。七瀬に凭れかかって背筋を丸めてはいるが、それでもこの場にいる誰よりも背が高い。190センチは超えているだろう。ドアから飛び出てくる時に前傾姿勢でなかったら、鴨居に額を打ち付けていたに違いない。
果たして、その頂点を覆う漆黒の部分だが、七瀬が評した通り、おかしなところはなかった。
フロントからサイドにかけて長く残し全体的にランダムな毛束感を作ったヘアスタイルは、流麗で上品な印象の面立ちにクールな躍動感を持たせながら、うまく調和している。七瀬だけでなく、少なくとも彼を見た皆、最初に来店した時とは比べ物にならないくらい良くなったと口を揃えて讃えた。
それでも本人は気恥ずかしくて堪らないらしく、涼やかな切れ長の眦に薄く涙を浮かべている。しかし七瀬の評価を聞くと、ぐっと引き結んでいた仄白いくちびるをゆるゆると開いた。
「本当に? 本当に大丈夫ですか? 短毛でも傍に置いてくれます? 言っておきますけれど、ナナセさんに会う前は背丈程の長さがあったんですからね? 私だって、元は正真正銘、本物の長毛だったんですからね?」
「どうでもいい。長かろうが短かろうが気持ち悪さに変わりはないから。寧ろ抜け毛の容積増える分、気持ち悪さ増すから。それならいっそ短い方がマシだよ。水嶋さん、ありがとうございます。おかげでこいつの気持ち悪さが少し、軽減した気がしなくもなくもなくもない気がします。皆様も、大変ご迷惑おかけしました。本当に申し訳ありません。行くぞ、ドアホ」
ぺこりと小さな頭を下げ早口で非礼を詫び、七瀬は男――本人が記入したアンケートシートによるとサラギセラという名らしい――の髪をがしりと鷲掴んで、サロンから出て行った。
その後ろ姿を見送るスタッフ達の中で、水嶋はせっかくのセットが崩れるだとか前髪だけでも切らせて欲しかった等と、またまた明後日のことを考えていた。
彼の職業病は、かなり重症らしい。
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