31.黒猫
「何のつもりなの。パーカー返しに来たついでに、公衆の面前で嫌がらせ? パーカーは返さなくていいって言ったよね? 迷惑だから、とっとと失せてくれる?」
その首にはガムテープが巻かれている。どうやら応急処置のつもりらしい。
「いきなりひどいじゃないですか! とんでもなく痛かったですよ!? 痛すぎて涙が出ましたよ!? 本気で首が飛ぶかと……え? ナナセさん、それはワンピースというやつですか? スカート姿を拝見するのは初めてですが、いやはや、可愛らしいですねえ」
「もう一発いっとく?」
段ボールの縁から身を乗り出して、涙目で怒ったり驚いたり笑ったりと大忙しのサラギに近付くと、七瀬はその髪を鷲掴んで凄んだ。
しかし、そんなものが通用する相手ではない。
サラギは例の不明瞭な微笑を浮かべ、そのまま七瀬の胸元に頭を擦り寄せた。
「にゃあん、ナナセさん、私を飼ってくださいにゃん」
「…………は?」
唖然として、七瀬は身を引こうとした。が、既にサラギは彼女の背中に腕を回し、その体をがっちりホールドしている。
悍ましさのあまり凍り付きながらも、七瀬は
だが、二人は妙に生温かい視線を送るばかりだ。おまけに七瀬助けるどころか、この変質者を援護し始めた。
「はあ、君達も懲りないねえ。また喧嘩したのかい? その度におかしなことをして迷惑かけるんだから……。皆さん、お騒がせしてすみません。二人には私がしっかり注意しておきますので、もう大丈夫ですよ!」
「あ〜、確かにイケメンだけどキモ……えふんえふん、変わった人みたいね。うん、あたしもお邪魔しないようにこのまま帰るかな。じゃあねえ、ナナちゃん!」
「え? え、ちょ……」
筒見が一抜けすると、それにつられて野次馬もそれぞれに散った。
コンシェルジュの中年男性は、七瀬の横を通り過ぎる際に軽く一礼してエントランスへと引き返して行ったが、いつも穏やかな横顔は引き攣っていて、明らかに笑いを堪えるのに必死という状態だった。戻ったらきっと、ホールで待機していた同僚に笑い話として語るつもりに違いない。
しかし、最後まで残った東條だけは、誰もいなくなっても、七瀬にしがみつくサラギを見つめたまま渋い表情で佇んでいた。
「何ですか、お巡りさん。私を捕まえるおつもりですか。やってごらんなさい」
必死に引き剥がそうと格闘する七瀬に、何度も膝蹴りを食らわされながら、サラギはその隙間から愉しげな瞳で東條を見つめ返した。
「けれど、私は諦めませんよ。捕まれば逃げますし、逃げられなければ抗います。今日が駄目なら明日、明日が駄目なら明後日。ここが駄目ならナナセさんのお勤め先、お勤め先が駄目なら通院されている病院。ナナセさんが飼い猫にしてくださるまで、ずっと続けますからね」
「何で私が、お前なんかをペットにしなきゃならないの」
東條が答えるより先に、七瀬が抗議の声を上げる。
段ボールに頭だけ被った猫耳パーカー、どうやら捨て猫を演出していたつもりだったらしい。
どういった思考回路でこのような結論に至ったのか。体の作りが出鱈目なら、頭も出鱈目になるものなのか。
サラギは七瀬に視線を戻すとやっと立ち上がり、彼女の肩に借りていたパーカーを着せ掛けた。
「私の中であの子猫が、ナナセさんに飼われたいと訴えているからです。その思いが私のナナセさんと仲良くなりたいという気持ちと共鳴し合って、今や心は一つなのですよ。ナナセさん、猫は要らないと仰いましたけれど、私なら丈夫ですし、お手入れ簡単、更に今ならお給料で買った猫缶も沢山付いてきます。おまけに、無料ですよ?」
深夜の通販番組のようなあざとい売り口上に、七瀬は呆れた、と言わんばかりに溜息を吐き出した。
「とんだ悪徳商法だね。アホみたいに場所取るし、バカみたいに食費かかるじゃん。デメリットの方がでかいゴミ以下の赤字物件なんか、誰が欲しがるか」
しゅんとサラギが頭を垂れる。
その隙に彼から離れると、七瀬は東條に駆け寄り、周りを憚って小さな声で囁くように言った。
「この人のことは、大丈夫だよ。だから、もう行って。所長さん、誰があなたを責めても、私はあの時、最後まで一緒にいてくれたのがあなたで良かったって、心から思ってる。守ってくれて、本当にありがとう」
世間では、現場にいたにも関わらず、同僚である
それでも、東條はその声に真っ向から向き合い、同じ交番で所長を続ける道を選んだ。
七瀬から初めて感謝の言葉を聞くと東條は敬礼し、それからいつかのように、恥ずかしそうに制帽の上から頭を掻いた。
七瀬曰く、ほんの少し可愛い、正義の笑みで。
東條を見送ると、七瀬は項垂れたまま佇むサラギの前を通り過ぎた。
「段ボールはちゃんと片付けてね。置き去りにしたら張り倒すから」
そして、エントランスに続くなだらかなアプローチを戻りながら、背中越しに告げる。
「…………可愛くないしアホだし気持ち悪いけど、仕方ないから飼ってあげる。野良にしとくと、碌でもないことになりそうだし」
サラギは呆然と彼女の後ろ姿を眺め、やがて密やかに笑った。
それは笑みを象ってはいたが、いつもの甘いような冷たいような曖昧な笑みではなく――――彼の中に在る底無しの狂気を凝縮したかの如く、暗鬱で酷薄な表情だった。
「私を、飼ってくださるのですか? つまりあなたは、その碌でもないこととやらの責任を負う覚悟を決めた、と?」
サラギの問いかけに、七瀬は肩越しに冷ややかな目を向け、素っ気なく言い放った。
「何で私が覚悟しなきゃならないの、生意気抜かすな。飼い猫は碌でもないことなんかしない。飼われる覚悟を決めるのはそっちだよ、クソ猫」
綺麗に取って返され、サラギが目を丸くする。
そして一つ、小さく苦笑を落とし、慌てて畳んだ段ボールを抱え、七瀬の後を追った。
その胸の内で、どこまでも気に入らない娘だ、とてつもなく面白い娘だ、と暗く愉しく謳いながら。
【かわいい猫の招き方】了
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