29.四葉
「ふぉぉ〜、広っ! リビング広っ! テニスでもなさるおつもり!? しかもバスルームが二つだと? ゲストルームも二つだと? トイレは三つだとぉ!? ちょっと、贅沢過ぎやおまへんか? ナナちゃん、実は貴族でござるか? あたし達、住む世界が違い過ぎて引き裂かれたりしちゃわないでやんすか!?」
「ねーよ。いいから落ち着け、
初めて
そして十五分ばかり跳躍巡回してやっとソファに座ったかと思えば、おかしなテンションでこのように意味不明なことを七瀬に向かって捲し立て始める。
そんな愉快な友人を、七瀬は呆れを通り越して半ば投げやり気味に宥めた。
それでも昼間は専門学校、夜はバイトに明け暮れ日々多忙な筒見が、わざわざ時間を作って見舞いに来てくれたのだ。素直に嬉しいし、心からありがたいと思う。
コーヒーが苦手な彼女のために、慌てて用意した紅茶を淹れ、七瀬は改めて感謝の気持ちを述べた。
「筒見さん、来てくれてありがとう。バイトも、長いこと休んじゃってごめんね。
「いえいえ。差し入れも持たずに来たのに、お茶までいただいちゃって、こちらこそありがとうだよ。それから七瀬さん、心配し過ぎとは言うけれどね、あなたの場合心配し過ぎて困ることはないのよ? 早く職場に復帰したいならしっかり完治させなさい、いいわね?」
筒見はカップを置くと、藤咲の口真似で返した。練習したのか天賦の才か、チーフだけでなく藤咲の物真似も完璧だ。目を丸くしてから、七瀬は藤咲にするようにして肩を竦めてみせた。
それから筒見に倣って、淹れた紅茶を口にする。柔らかな芳香が、鼻と喉にふんわりと広がった。いつもコーヒーばかりだが、たまには紅茶も悪くない。
「でも、ナナちゃんが無事でホント良かった……すっごく怖い思い、したよね。忘れるなんてとても無理だろうけど、私もついてるから。藤咲先生とかオーナーとかに比べたら頼りないけどさ、私に出来ることあれば何でもするよ!」
優しい友の温かな激励を聞き、七瀬は浮かべられない笑みの代わりに力強く頷いてみせた。
「大丈夫、筒見さんの面白行動のおかげで大分癒された。というか殆ど気を失ってたし、怖いと思う暇もなかったよ」
前半は冗談、中盤は嘘、しかし後半だけは本音だった。
あの凄絶な夜から、早くも五日経つ。
左手小指の骨折は思った以上に酷く、簡易ながら手術を要した。入院するほどではなかったものの、痛みを感じない七瀬が無闇に動かさないようにと、ギプスで固定した上で肩から吊るすことを強いられている。警棒で打ち付けられた足もなかなか腫れが引かないため、暫くは苦手なスカートを履かねばならない。また顔面はあちこちテープだらけ、そして包帯で隠された首には、いまだ生々しく指の痕が残っていた。
その時のことを、七瀬はそっと思い返してみた。
蘇るのは驚愕、衝撃、不快感、嫌悪感、そして不条理――何より恐れた死の境界線を幾度となく越えかけたにも関わらず、それでも記憶のどこを浚っても、やはり恐怖は見当たらなかった。
首を絞められた時も銃口を向けられた時も、あまりに突然で気持ちが付いていかなかったたせいだろうか。
交通事故に遭う直前の被害者の心境に似ているのかもしれないが、全てが終わった今でも現実に起こったことであるはずなのに、少しも現実感が沸かなかった。
――――常識というものをを甚だしく逸脱し、覆し、薙ぎ払った、荒唐無稽で滅茶苦茶なあの男のせいで。
「ね、そういえばナナちゃん、ハマってる本ってどれ? 見たい! 知りたい! 読みたい!」
筒見の明るい声が、七瀬を現実に引き戻す。
我に返った七瀬は、得意のおねだりポーズで可愛くせがむ友人にテーブル横を指し示した。
「そこのラックにあるよ。見舞いの功績を称えて、今日は特別に触れることを許可する」
といってもシルバーフレームのシンプルなブックラックには、その本一冊しか入っていない。読み終えた本は手元に置かず、さっさと回収してもらうのが七瀬の主義なのだ。
「はいはい、お姫様。私めのような下賤な者に、本をお貸し下さりありがとうございますですよ」
先ほどまでのブリッコポーズはどこへやら、ふてぶてしく憎まれ口を返し、軽く腰を浮かせて七瀬の愛読書を手に取ると、筒見は華やかな歓声を上げた。
「うわぁ、かっわいい!」
お主も表紙の黒猫にやられたか、同士よ、と言いかけた七瀬だったが、それは思い違いだった。
「ねえ、これ手作りだよね? ナナちゃん、やるじゃん。意外と可愛い趣味あるんだあ」
筒見が摘んで眺めているのは、押し花を施した若草色の栞だった。暇潰しに作ってみたら、思いの外出来が良かったので、愛読書に挟むほど気に入っている。
「意外とって何だよ、失礼な。確かにらしくないかもしれないけど、うまくできたんだから素直に褒めてくれる?」
栞を掠め取り、七瀬は眉をひそめてみせた。
使われた花材は、四つ葉のクローバー。
幸せを運ぶどころか、とんでもない目に遭わせてくれた曰く付き。
何故捨てなかったのかと聞かれれば、何となくとしか答えようがないけれど――心の何処かに、異性から贈り物を貰ったのは初めてだったから、という気持ちもあったような気がする。
だとすれば筒見の言う通り、自分にも実は可愛いところがあるのかもしれない。
そう思うと、七瀬の頬の奥の奥に、あの時の余韻が薄く蘇った。
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