28.黎明


「…………仰っていることの意味がわかりませんな。私は、殺戮などという無益で無為な行為は嫌いです。まさか、私がナナセさんを食べる、なんて思ってませんよね?」



 違うの? と言葉を発する代わりに、七瀬ななせは虚ろな目でサラギを見上げた。



 出迎えたのは、いつもの甘いような冷たいような胡乱な笑みではなく――――ただただ、どこまでも優しい微笑みだった。



「ナナセさんは、食糧などではありませんよ。私の大切なお友達です。たとえ食べてくれと言われても、今はちょっと無理ですねぇ……もうお腹一杯で、口からもお尻からも出そうなんですよ。さすがの私でも、夕食後に二人は多過ぎました。朝食は控えた方が良さそうですね」



 そう言ってサラギは腹を押さえ、わざとらしく眉を寄せてみせた。いつの間にか、上杉うえすぎの死体もその腹の中に収めていたらしい。




 するとその時、七瀬の頬が小さく、本当に僅かに、だが確かに動いた。




「…………やっぱりサラギくんって、すごく、気持ち悪い」


「ナナセさん、今、笑っ……」




 サラギの言葉を遮るようにして即座に俯くと、七瀬はしっしっと手を振りながら、早口で捲し立てた。



「ほら、さっさと行って。私が何とかうまい言い訳考えて、この状況を説明する。だからもう、二度とここに戻ってきちゃ駄目だよ。それから」



 俯いたまま彼女は踵を上げ、そっと手を伸ばし、サラギの頭を撫でた。



「いつか雑誌で私が眺めてた猫、買ってくれるつもりでいたなら、先に断っとく。受け取れない。私には、誰かの命を預り守るなんて、できないから……」



 福沢の言っていた『欲しいもの』で七瀬が思い当たったのは、情報誌に掲載されていたペットショップの記事だった。


 血統書付きの子猫、二十万円。


 高いのか安いのか相場は知らないが、その時はどうしようかとかなり悩んでいた。



 だが、安易に買わなくて良かったと今は思う。殺人者である自分に、他の命を預かる余裕も自信も、はたまた資格もないのだと痛感したからだ。



「酷いこと、沢山言った。ごめんなさい。子猫のこと、ありがとう。本当にありがとう……サラギくん」


「…………どういたしまして」



 その一言と共に、不意に七瀬の前からサラギの気配が消えた。



 弾かれたように顔を上げると、そこにはもう誰もいなかった。いまだ生々しい血臭漂う雑木林に、柔らかに降り注ぐ木漏れ日が落ちているだけだ。



 先程は薄っすら確認できるくらいだった地平線は、既に眩い光を放つ太陽の輝きに満たされていた。



 この時間帯に生まれたからこの名を付けられたのだ、と七瀬は昔、聞いた覚えがある。


 語ったのは誰だったか。


 散々虐待し続けた娘に死出の道を開かせ、最期は溺れる者は藁をも掴むという諺に倣うかの如く、その娘を抱いて抱き締めたまま、命の終焉を迎えた母親か。


 そのせいで精神的に崩壊し、殺人どころか自殺幇助の罪すら免れた娘の引き取りを拒否し、代わりに生涯の生活一切を面倒見ると約束して関わりを封じた、顔も知らない父親か。


 それとも、自分自身の妄想なのか。



 取り留めのないことを思いながら、七瀬は朝焼けを眺めた。



 前日と少し同じで少し違うこの景色を、前日と全く変わらない思いで迎える者もいれば、前日とは劇的に異なる感情と状況をもって迎える者もいるだろう。


 この同じ空の下にはたくさんの人間がいる。


 なのに、そんな当たり前のことにも現実感が沸かなかった。


 自分の存在すら朧げで遠かった。


 この風景を眺めていると、いつもそんな気持ちになった。


 誰もいない何もない、無色透明の世界に霧散していくような――どこまでも静かで虚ろな気持ち。



 だけど、今は違う。


 最後まで理由は聞けなかったが、守られた借りは返さねばならない。彼を殺人犯にしてはならない。逃してやらねばならない。



 母親と世界を分かつ以外にも、生きるための明確な目的が、今だけはあるのだ。



 七瀬はそっと、自分の頬に触れてみた。ざらついた土と乾いた血の感触が、指に伝わる。それだけだ。



 そのまま大きく息を吐き出すと、彼女は暁の黎明を過ぎた地平線に背を向け、歩き出した。己の意志で進むと決めた道へ。

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