27.名前


 あの時と同じように、こちらに向けて手が伸べられる。


 七瀬ななせは躊躇いなくその手を取り、胸に飛び込んだ。



 が、やけに固い感触が頬にぶつかる。背中に腕を回されたところで、七瀬はその相手が母親ではないことに、やっと気付いた。



「何するんですか! ナナセさんの方からくっついてきたんでしょう!? なのにこの仕打ちはあんまりじゃありませんか!?」



 思い切り突き飛ばされたサラギが、尻餅をついた情けない格好で非難する。



 七瀬は綺麗に無視して眉をひそめ、サラギの体が触れた部分を見た。黒い生地だったおかげでそれほど目立たないものの、あちこち染みが付いている。それを確認すると、七瀬は直ぐ様パーカーを脱いでサラギに投げ付けた。



「汚物扱いですか、そうですか。まあ、この状態では仕方ありませんがね」



 七瀬のパーカーを受け止めたサラギは、血と体液と肉片に塗れた己の惨状を認め、自虐的に溜息を落とした。


 黒のスーツはともかく、内側に着ていたシャツは何度となく浴びた血液に幾重にも塗り染められ、紅のマーブルを描いている。体に比べて顔は舐めとったのか、まだマシな状態だったが、それでもあちこちに血の痕がこびり付いていた。



「ポケットにハンカチ入ってるから、取り敢えず顔だけでも拭いて。その服はあげる。着るのは無理そうだけど、羽織れば少しは人目が誤魔化せるでしょ。交番は今、多分無人だろうから、気付かれてもう騒ぎになってるかもしれない。それにこの人も……どうやらいいとこのお坊っちゃんらしいし、お家の人が探しに来るのも早そうだよ」



 足元に転がる五十嵐いがらしに視線を落としつつ、七瀬はサラギに早くこの場を立ち去るよう告げた。



 五十嵐は涙と涎をだらだら溢し、潰れた気管からキヒィキヒィと奇妙な音を漏らしながら笑い転げていた。目前で繰り広げられた凄惨な人食劇に、耐え切れず気が触れてしまったようだ。


 やはり、精神的にひどく脆かったのだろう――誰にも受け入れられない現実から逃げ、他者を攻撃する以外に自分を保つ術を見付けられなかったくらいなのだから。




「…………ナナセさん、指、痛くないんですか」




 グレーのハンカチで顔を拭いていたサラギが呆然と呟く。今頃になって、彼女の小指が折れていることを悟ったのだ。


 七瀬は小さく頷いて、同じように呟き返した。




「…………サラギくんは、死なないんだね」




 二人の間に、静寂が落ちた。共に無表情で向かい合い、透明とも暗黒ともつかない虚無の視線を躱し合う。



 長く深い無音の時を破ったのは、サラギの方だった。



「ええ、頑丈だと言ったでしょう? どうです、羨ましいですか?」



 冗談とも挑発とも受け取れる言い方だったが、七瀬は素直に思ったままを答えた。



「羨ましいわけあるか、気持ち悪い」


「気持ち悪いって……全く失礼ですね。死にたくないなら、不死の身に肖りたいと思うものではありませんか?」



 サラギが楽しげに肩を揺らし、くちびるを吊り上げる。今度のは明らかに挑発だった。


 それでも、七瀬は関心なさげに小首を傾げてみせただけで、相変わらず抑揚のない声で言った。



「そんなもの、要らないよ。他の人はどうだか知らないけど、それじゃ意味がないんだ、私には」



 そして、木々の間に間に顔を出し始めた赤い地平線に、真っ直ぐ人差し指を向ける。



 口元を手で押さえ何やら思案していたサラギも、つられて陽光に滲む大地と空の境に視線を移した。




「…………アカツキ」


「え?」




 薄茶の瞳に朝陽を映したまま、七瀬は続けた。



七瀬ななせあかつき、私の名前。最後に名前を呼ばれたのは、母親が死んだ時。母親は、私が殺したの。母親はまさに首を吊ろうとしていたところだったから、自殺幇助で片が付いたけど……あの人が足を乗せてた椅子を蹴り倒したのは、私。私が、殺した。私、人殺しなんだ」



 七瀬の耳奥に、またあの声が蘇る。


 食い込む縄に締め付けられた喉から絞り出す声は、掠れて悲痛ではあったけれど、これまで聞いたどんな音よりも優しく心地良く、甘美だった。



「その時にね、初めてあの人に名前を呼ばれたの。だから名前を呼ばれるのは、大嫌い。あの人の最期を、思い出すからじゃない。あの人の声を、他の誰かに上書きされたくないから。あの人の声を、忘れたくないから」



 サラギは呆然と彼女を見つめていたが、それから少し間を置いて、静かに問うた。



「…………何故、私に教えてくれたんですか?」



 七瀬は伸ばしていた腕をゆるゆると下ろし、俯いた。



「何でかな、よくわかんない。本当に、何でこんな気持ち悪い奴に教えたんだろうな…………多分、消えちゃう前に、誰でもいいから伝えておきたかったのかもね」



 自らの言葉を他人事のように聞きながら、随分と滑稽なことを抜かしている、と七瀬は自嘲した。



 人をも食らう不死者。

 門外不出だった、秘密の存在。


 そんな彼の正体を知ってしまったのだ、自分だって無事に済むはずがない。



 わかっていて、ここに残ることを選択した。遅かれ早かれ、いずれ自分も彼らと同じ末路を迎える。この運命からは逃れられそうにない。逃げ切ることなどできそうにない。何故なら、この男は何を使ってもどうしようとも死なないのだから。


 ならばせめて、彼の贖罪とやらの結末だけでもしっかり見届けたかった。


 それでも――どうせ死ぬなら、ただの養分としてではなく個人として死にたい、と思った。


 独りよがりの身勝手な願いだと嘲笑われようと、それが七瀬にとって最期の、唯一の望みだった。



 食餌となる動物の名前も過去も、捕食者にとっては無意味で無価値なものだ。


 たった今、嫌というほど思い知らされたはずなのに――。


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