26.贖罪


 凍り付く山崎やまざきの目に、無表情でこちらを見守る七瀬ななせが映る。


 指を折られても警棒で滅多打ちにされても、何で、と繰り返し続けた彼女の声が耳に蘇った。



 これは神罰なのか、と山崎はらしくもないことを思った。



 苦痛の通じない少女に、殺しても死なない男。


 悪戯に命を弄んだ自分にとって、相応し過ぎるほどに相応しい断罪者ではないか。




「……何故って? 苛ついてたからだよ!」




 最早これまでと開き直りの境地に達し、山崎は苦しい吐息の間に間に荒っぽく言い捨てた。



「毎日毎日くだらねえ雑務ばっかり、そのくせ休む暇はねえ、やっとの思いで家に帰りゃ嫁が当たり散らす、ガキは泣き喚いて睡眠妨害。ストレス発散しないで、こんな生活やってられっかよ! 畜生殺して何が悪い!? どうせいざって時には警官に頼るんだろうが! だったら、俺達の心の平穏のために獣の命くらい差し出せよ! 好きにさせろよ!!」



 力を振り絞り怒鳴り散らす山崎に、サラギは頷いてみせた。


 彼の言い分を肯定したのではない。甘さの消え失せた酷薄な微笑が、何よりの証だ。



「よくわかりました。実はね、私が本当に探していたのは、あなた達の方なんです。ほら、これ」



 サラギは背広のポケットから粉々に砕けた子猫の頭蓋骨を摘み出し、見せ付けるようにして山崎の目の前で掌に一つずつ、乗せていった。



「あなたの相棒さんに蹴られて、こんなになってしまいました。これではもう、元には戻せませんね。原型のまま残っていたとしても、いつどこでどうやって殺したかなんて覚えてないでしょう。けれど、仇を取れば許してもらえますかねえ」



 思わぬ言葉に、七瀬は弾かれたように声を上げた。



「待って。あの子猫、サラギくんが殺したんじゃなかったの?」



 少しの間を置いて、静かな答えが返ってきた。



「私が見付けた時にはもう、満身創痍だったんです。首だけを残して、あとは尻尾の先までズタズタに切り裂かれていて酷いものでした。私の足元に擦り寄ってきたかと思ったら、すぐに死にましたよ。普通なら怯えて人になど近寄らないはずなのに、あの体では身動きするのもままならなかっただろうに。きっと、誰かを待っていたんでしょうね。それに気付いたのは…………あなたに会ってからです」



 これまでと違い、七瀬の方を見ようともせず、サラギは淡々とした口調で説明を終えると、子猫の骨をぐっと握り潰して辺りに撒いた。


 白い欠片が柔らかに舞う。


 それが完全に闇に溶けるまでを見届けてから、彼は毅然とした口調で告げた。



「私はこれから、この人達を罰します。それが子猫の最期の願いを踏み躙った、私の贖罪です。あなたはもう帰ってください。見たいと仰るなら止めませんが、リキさんの腕で懲りたでしょう。さあナナセさん――行きなさい」



 生きなさい、と言われた気がして、七瀬の心臓が音を立てた。



 これから何が行われるのか、それはきっと、彼女の想像通りなのだろう。



 七瀬は重い足を踏みしめて立ち上がり、歩き始めた。

 ――――雑木林の外に向かってではなく、サラギの元へ。



 そして五十嵐いがらしの隣に座り、サラギと山崎を仰ぎ見た。



「すごく嫌だけど……最後まで、付き合うよ。私にとっても、その人は仇だから」



 サラギの眦が、軽く吊り上がる。

 しかし、返答はそれだけだった。



 ついに笑みまで消してしまうと、彼はこれまで七瀬が聞いたこともない、暗い愉悦に満ちた声で低く宣告した。




「では…………いただきます」




 開いた口の中で綺麗な赤い舌が躍り、唾液に光る鋭利な犬歯が獲物を捕えた。


 山崎の咆哮。


 噛み裂かれる皮膚、飛び散る血潮、引き千切られる肉。


 山崎は叫び続ける。


 己の肉体が徐々に欠けて行く、それにつれ魂も削り取られ行く。苦痛より恐怖に、山崎は泣き叫んだ。


 サラギは止まらない。


 脂肪を啜り、筋肉を齧り、内臓を飲み込み、骨を咀嚼する。



 黒い森が赤と橙と黄色に斑に染まる様に、七瀬の瞳は震え慄いた。


 立ち込める血臭と腐臭と便臭に、鼻が吐き気を訴え叫ぶ。

 肉を捏ねる音と骨がもがれる音と内臓を毟る音に、耳が悲鳴を上げ拒絶する。



 人間が生きたまま人間を食う――――視覚、聴覚、嗅覚で、惨憺たる光景を体感しながら、しかし七瀬が記憶しているのはそのくらいで、途中から意識は別のものを投影していた。



 逃避したのではない、いつかの体験がオーバーラップしたのだ。



 彼女の視界では、解体されていく山崎に重なり、腐った母親が揺れていた。


 真夏の大気はいとも容易く人体を溶かし、ただの蛆の住処にしてしまう。


 七瀬の全身にも蛆は集り、至る箇所に容赦なく噛み付いた。痛みはない。苦痛など、ずっと感じたことがなかった。


 痛みというものを初めて理解したのは、あの時一回きり。




 そう――首を吊った母親が、初めて名を呼び強く抱き締めた時だけだ。




『……、……、……、……』


『ア、……、……、……』


『ア、……、……、キ』


『ア、……、ツ、キ』




 立ち尽くす娘の体を、固くしっかりと両腕にかき抱きしがみつき、その耳に繰り返し繰り返し囁きながら、彼女は逝った。



 抱き締め返した腕には濡れ蕩けた肉の感触。喉奥には、煮溶けた血の味。


 苦痛と五感と感情、彼女は全て与え、全て奪って逝ってしまった。



 いつ亡くなったのか、七瀬は知らない。


 ずっとずっと、その声はこびり付いて離れず、いつまでもいつまでも、彼女は傍にいるかのように思えた。そう、今も。

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