24.椅子


「リキさんは必死に逃れようと格闘している最中、この人を引っ掻いたようです。こちら側の手だけ、全て爪が剥がされていたのは、皮膚組織という証拠が残るのを恐れたため。しかし、リキさんの抵抗は想像していた以上に凄まじかったのではないですか? この通り、傷口にまで服の繊維が付着していたくらいですからねえ」



 ビニール袋と、優しいようでいて冷ややかな微笑に全員の視線が集中する。子どもに御伽噺を読み聞かせるように穏やかな口調で、サラギは続けた。



「この袋の中にあるのは、リキさんが我々に残した『犯人を捕まえてほしい』という遺志です。どれほど傷だらけになろうとも、どれほどの苦痛に苛まれようとも、リキさんは最後の最期まで諦めなかったのでしょう。死にたくない、けれど生きられそうにない、ならば自分の命を奪った者が誰であるかを伝えたいという、文字通り、決死の一心がこの袋の中身なのです」



 とはいえ、サラギは自称解剖の際に、何かが付着していると気付いただけだ。


 これ以上は自分一人ではどうにもできないと考えてホームレス仲間達に相談したところ、昔医者だったというルーが知人を頼り、成分分析を依頼してくれた。


 結果が判明すると、皆で該当する生地がないかゴミをチェックして回ったり、服屋やクリーニング店などにそれとなく聞き込みをしたり、また現場や遺体の状況から推理を話し合ったり、犯人は現場に戻るという言葉を信じて深夜に張り込みをしたり――殆どが徒労に終わったけれども、仲間達で力を合わせてリキの最期の思いに応えようとした。



 ホームレスとて、侮ってはならない。

 彼らの中には、専門分野の第一線で活躍した者も存在する。


 何より、彼らが団結した時の行動力は計り知れないのだ――――サラギはそう締め括った。



 苦労秘話が一段落ついたところで、七瀬ななせは引き攣る喉を震わせて言葉を吐いた。



「腕の話は、わかった。けど私が聞いたのは……そのことじゃなくて」


「え? 違う? では何です? ああ、彼らの動機ですか。奇遇ですね、私も知りたいと思っていたのです」



 それも違うと言いたかったが、七瀬がもう一度口を開く前に、サラギは掴んでいた五十嵐いがらしの腕を握り潰した。



「ぎぃあ! ああ! ぐひぃぃ! いああああ!」



 五十嵐が絶叫して悶絶する。

 すぐに左手首も、同じ運命を辿った。


 骨の砕ける音。


 折れたなどという生易しいものではなく、確実に壊れたと理解できる取り返しのつかない感覚に、五十嵐は獣のように吠えた。


 それでも、サラギはまだ手を離さない。


 少しでも身じろぎすれば、砕けた両手首に激痛が走る。

 そのため倒れることはおろか、膝を付くこともできない。


 五十嵐に許されたのは、喉の限りに叫ぶことだけだった。



「大の男が、このくらいで泣いてどうするんです。ほら、ちゃんと立って、あなたの主張を話してください」



 がくがく震える足で精一杯地を踏みしめる五十嵐を叱咤し、サラギは両腕を更に上に引き上げた。五十嵐が声にならない声で鳴く。


 ひいひいというすすり泣きの隙間から、彼は必死に哀願した。



「おね、お願い……もう、やめて……やめてくださあいぃぃ」



 涙と鼻水と涎に濡れ汚れた顔には、つい先程まで浮かべていた無邪気な笑みなど見る影もなく消え失せている。


 サラギは軽く吐息を落とし、口づけせんばかりに顔を寄せて五十嵐の目を見据えた。



「私にお願いするのは、あなたがこちらのお願いを聞いてからですよ」



 黄金に近い虹彩は、奈落の闇に堕ちた咎人をじわじわ灼き溶かす業火の海の如く暗く燃えていた。


 その凄絶な色に魂を飲まれたかのように、五十嵐は血の気が引いたくちびるから、ようよう声を漏らした。



「こ、こんな……腐った世の中、間違ってる。どいつもこいつも、腐った奴、ばかりだ。僕は、僕だけは汚水に、染まらない。不要品は、淘汰する……正義の、名の元に、粛清するんだ。それが、僕の、役目だ……」



 サラギが眉をひそめて考え込む。だが、すぐに諦めて匙を投げた。



「う〜ん、ちょっと何を言っているのか、わかりませんね。あなた、翻訳できます?」



 話を振られたのは、匍匐前進でその場から離れようとしていた山崎やまざきだった。


 振り向く間もなく、背中を凄まじい衝撃が襲う。


 続く、五十嵐の身を切る絶叫。


 匙だけでなく、五十嵐も投げたのだ。



 赤い線が太く弧を描く。それを見たサラギは首を傾げてから、自分の手元に視線を落として恥ずかしそうに肩を竦めた。



「おや、取れてしまいましたね」



 一体どれほどの力で握り締めていたのか、サラギの手には千切れた痕も生々しい五十嵐の両手首が残されていた。


 山崎が、恐る恐る隣に転がる五十嵐に首を向ける。五十嵐は白目を剥き、泡を吹いて半ば失神していた。


 しかし、間髪を置かずその目はかっと見開かれ、口から金切り声が轟いた。



「あいいいいい! いやああああ!」


「コラコラ、まだ話は終わっていませんよ。何故、リキさんを殺したんです? ちゃんとわかるように教えてください。さあ通訳さん、あなたも起きなさい。起きて、話してくれませんか?」



 今度は五十嵐の両の足を掴んでこちらも圧砕すると、サラギは力任せにその体を山崎の背中に叩き付け始めた。



「やめろ! やめてくれ! 話す、全部話すから!」



 二度目の打擲で山崎は降参した。慣性で急に止められなかったのか、サラギは五十嵐をもう一度山崎に振り落としてから、艶然と微笑んだ。


 準備が整ったところで、彼は少し離れた場所で力の入らない体を木に凭せかけていた七瀬に声をかけた。



「ナナセさん、こちらへいらっしゃい。そんな遠くにいては聞こえないでしょう。ほら、椅子もありますよ?」



 喉が潰れたらしく声も出せぬまま、四肢を背面に向けて関節でも何でもない部分からボキボキと文字通り折り畳まれた五十嵐を指し示すサラギに、七瀬は蒼白しつつも弱々しく首を横に振った。



「大丈夫、ここでも聞こえる……ここでいい」



 彼女の返事を聞くと、サラギはしょんぼりと肩を落とした。



「そうですか……確かにあんまり綺麗じゃありませんし、一緒に座るには小さ過ぎますもんね。仕方ない、通訳さん、あなたに譲ります」



 仰向けに横たえられた五十嵐の腹の上に、山崎は有無も言わさず座らされた。


 出鱈目に捻折られた二の腕と太股に体重がかかり、五十嵐がひゅうひゅうと苦しげな呼吸音で苦痛を訴える。


 苦悶に力むあまり毛細血管が切れたらしく、白目は充血し顔は紫に変色し、口と鼻からは泡混じりの血を吹き溢していた。


 自分の下で、声無き悲鳴を漏らす五十嵐の壮絶な表情に、山崎は限界を超えた恐怖から激しく嘔吐いた。


 だがサラギは構わず、背後から彼の肩を叩いて促した。


 途端に、びっしょり汗に濡れていた山崎の全身がさっと冷える。


 刺された脇腹の痛みも忘れ、真後ろに立ちはだかる正体不明の男の放つ凄絶な圧力に押されて、山崎は意を決して重い口を開いた。

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