22.喪失
「てめ……!」
サラギの伸ばした腕が凄まじい速度で七瀬を通り過ぎ、斜め上にあった彼の顔面に激突したせいだ。
鼻っ柱に拳を叩き込まれ、吹っ飛んだ山崎から漸く解放された
「ナナセさん、大丈夫ですか? それにしても、今日はいつもと雰囲気が違いますね。お化粧しているせいでしょうか? 今の流行はあまり存じませんが、随分と斬新な彩色ですね」
泥と血に汚れた七瀬の顔を間近に見つめ、サラギは相変わらずのとんちんかん節で感想を述べた。
「……うん、ついでに太ったからかな。実は、こうして立ってるのも怠いんだ。ダイエットしなきゃだね」
我に返った七瀬も、炎症を起こして膨れ上がった足を見下ろして、とんちんかん節で返す。
それから、彼に言わなくてはならないことがあるのを思い出した。
「サラギくん、あの……」
「動くな!」
鋭い威嚇に振り返ると、片膝をついた
「動けば二人共撃つ。脅しじゃねえ。どいつもこいつもふざけやがって……もう許さねえ。とっとと腕の在処を吐け!」
血走った双眸は、先程までとは段違いに凶暴で危険な光を帯びており、その言葉が嘘ではないことを如実に表していた。本気である証に、銃口は少しもぶれがない。
意を決して、七瀬は隣に立つサラギを見上げ、恐る恐る尋ねた。
「ねえサラギくん、リキさんの腕、あれからどうした? まだ、残ってる……?」
「ああ、あれですか。実を言うと、犯人に関するとても有力な証拠が得られたんです。なるほど、だからお巡りさんも必死だったんですね」
サラギは事も無げに答え、優雅な手つきでスーツの内ポケットを探ると、そこから小さなビニール袋を取り出し上杉に掲げてみせた。
てっきり凶事の残滓を見せつけられるのだと思い身構えていた七瀬だったが、拍子抜けして小さく吐息を漏らした。中には彼女が想像していたような血も肉塊もなく、目を凝らさなければわからないくらい細かな微量の糸くずがあるのみだったからだ。
「これが、目的なのでしょう? これは、リキさんの傷に僅かばかり付着していたものです。お願いして調べていただいたところ、どうやら水色の繊維のようだと判明しました。私は生地や布地などには詳しくありませんが、あなた方の着ている制服もそういえば同じ――水色ですねえ」
七瀬が思わず上杉を見る。
しかし、上杉は駄々をこねるように力一杯首を横に振って否定した。
「違う! 本当に違うんだ! 俺達じゃない! 俺達は人なんか殺してない! 人だけは手にかけたことがない! 本当なんだよ!」
泣き声に近い切実なる訴えも、この状況では説得力がない。サラギは柔らかに口角を上げたまま、困ったように眉を寄せた。
「そんな物騒なものを人に向けてる方に言われてもねえ。それにその言い方では……人以外なら殺している、と仄めかしているように受け取れますが」
「…………この人達が、例の動物殺してた事件の犯人だよ」
七瀬が低く告げる。
すると、サラギの口元から笑みが消えた。
「おやおや。これは……」
琥珀の瞳に、一滴の暗い光が落ちる。光は点からじわりと滲み広がり、瞳全体を満たし始めた。
「だから、それは認める! だけどあの浮浪者はやってない! あれをやったのは警官でも何でもない、俺達は制服を貸しただけだ! あんた、見たんだろ!? 所長に話してたよな!? パトロール区域から外れてるはずの、ここに……!」
上杉の声に重なり、何かが破裂するような乾いた音が辺りに響き渡った。
音は続く。
その度に上杉は激しく身を震わせ、体のあちこちから赤い液体を散らした。
「上杉さぁん、約束破って仲間を売るなんて警官失格ですよ〜? 何で勝手に喋ってくれちゃってるんですかぁ」
上杉の後方から、薄く漂う白い硝煙を背景に姿を現したのは、東條や上杉と同じ、警官の制服を纏った若い男だった。
気怠げな細い目付きと特徴的な甲高い声は、心許ないながらも七瀬の記憶に薄く残っている。
サラギと二度目に遭遇する直前に出会った、やる気のなさそうな警官だ。
「あ〜あ、大切な制服に穴開けちゃった。山崎さんよりも上杉さんの方がサイズは良かったのになあ、勿体無い。でも、夏服なら洗い替えが沢山あるからいいや。上杉さんの遺志は僕が受け継ぎますよ。安心してそこで見守っていて下さいね〜」
そいつは倒れて動かなくなった上杉を見下ろし、愉しげに言い放った。
そして弾丸を撃ち尽くした銃を放り投げると、上杉の手に握られた銃を奪い、七瀬とサラギに銃口を向けた。
「じゃ、そういうわけで」
何の躊躇いもなく、トリガーは引かれた。
避けるなど、考える暇すらなかった。考えついたとしても、この距離では逃れられなかったに違いない。
発砲音と共に、七瀬の頼りない体が宙を舞う。
だがそれは、着弾の勢いで吹き飛ばされたせいではなかった。
山崎の体の上に投げ出された七瀬は、連続して弾丸が放たれる音を聞きながら、何が起こったのかを理解しようとショックで揺れる頭を叱咤した。
強い衝撃を受けたはずの肩は、血も流れていない。
突き飛ばされた。
間一髪で、救われた。
誰に?
誰って、一人しかいない。
慌てて身を起こした七瀬の両の目に映ったのは――――仰向けに倒れたサラギの頭に、傍らに屈み込んだ男が銃口を突きつけ、今まさに引金を引こうとしている瞬間だった。
「サラギくん!」
必死の叫びは、しかし、命を奪う残酷な音色に掻き消された。
サラギは声すら上げず、横たわったまま、動かなくなった。
交通事故の時のように、当たりどころが良かったから、とへらへら笑って立ち上がることもなかった。
当たり前だ、死んだのだから。
あっさりと彼の命を断ち切った男は、満足げに笑っていた。
そしてサラギの手からビニール袋を取り上げ、凶器を次なる標的である七瀬に向けてゆっくりとした足取りで近付く。近付いてくる。
あれほど忌み恐れた死に直面しているというのに、七瀬は恐怖を感じなかった。
現実感が沸かなかったのもある。
だがそれ以上に、この状況に対する理不尽を問う声ばかりが頭を巡っていた。
何故。
何故、何故、何故。
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