21.歌声


『……』



『…………』



『……は、……ない』



 こめかみを打つ鼓動の音が、一気に膨れ上がる。目を見開いているのに、視界はゆっくりじわじわと暗黒に侵食されていく。


 それでも、懸命に持ち堪えようと奮闘する七瀬ななせに、例の声が呼びかけてきた。



 ごめん、と七瀬は心の中で声の主に語りかけた。



 やっぱり、出来損ないの人でなしは、何をやってもうまくいかないみたい。結局、生きることもまともにできなかった。




『……は、……じゃない』




 いつもと変わらぬ調子で、その人は囁く。

 耳を塞ぎたくなるような言葉を、吐きつける。


 最期の時を、現実より鮮やかに、七瀬の記憶は延々と繰り返し再生する。


 それが、走馬灯の映す全て。その時が彼女の人生の中で、あらゆる意味で、絶頂の瞬間だった。


 殺した者と殺された者、死の世界で両者は隔絶されるだろうか。


 天国と地獄、例えば地獄しか存在しないとしても、大叫喚地獄と無間地獄、もしくは第七圏と第九圏カイーナ。



 しかしそれすら不可能だというなら、もう、なす術はない。




『ァ、…………』



『ア、……、……、キ』




 意識が遠退くにつれ、呼び続ける声が明瞭になる。



 七瀬は小さく震えて、腐り溶け落ち肉塊と化した手を伸ばすその人に、もう一度詫びた。




「…………ごめんなさい、お母さん」




 圧迫された頸部から零れた声は小さく掠れていたけれども、間近にいた二人にははっきりと聞き取れた。


 それを聞くや、上杉うえすぎは我に返ったかのように手を離した。



 彼女の漏らした、たった一言の言葉によって、今まさに命を奪おうとしている相手は自分達と同じ、親のいる人間なのだと思い知らされたからだ。



 一斉に流れ込んできた空気が気管の中で狂ったかのように暴れ、七瀬は激しく咳き込んだ。



 酸素を取り込もうとする肉体の反射に任せ、噎せ喘ぐ彼女の耳に――生温い風に乗って漂う、微かな音色が届いた。


 七瀬より先に音を察知した上杉と山崎やまざきは、音の正体を見極めようと、揃って即座に身構えた。



 それは、どうやら鼻歌のようだった。


 歌っている主は、既にこの雑木林に入り込んでいるらしく、乱れのない足音を伴って、真っ直ぐこちらに近付いてくる。



 方向を逸れる気配はないと判断した山崎は再び七瀬を押さえ付け、荒い呼吸もろとも口を塞いだ。上杉は落とした警棒を拾い上げ、制帽の真下から緊迫した視線を声の方に向けている。



 相手はもう、歌う曲目すら判別できる距離まで接近していた。奏でるは『荒城の月』――渋い選曲だと感心する余裕など、誰にもない。



 そしてそいつは、闇色のシルエットから徐々に姿を現し、ついに声を発した。



「…………おや? どなたです? ……ああっ、猫ちゃんのお家が! ちょっとあなた、大事な猫ちゃんに何を……って、ああああ! 割れてるじゃないですか! これは酷い……全く、何て事をしてくれたんですか!」



 布袋を被ったまま倒れている人物と、墓らしき場所が荒らされているのに気付くと、その人物――サラギは慌てて子猫の頭蓋骨を拾い上げ、動かない東條とうじょうに悪態をついた。


 屈み込んで破損具合を確かめるサラギの背後から、警棒を持った上杉が気配を殺して忍び寄る。



 七瀬は懸命に藻掻いて山崎の手に噛み付き、力の緩んだ掌の隙間から叫んだ。



「サラギくん! 逃げて!」

「え?」



 振り向いた瞬間、彼の頭頂部目掛けて警棒が振り下ろされ――――なかった。



「ナナセさんじゃないですか! 良かった、やはり誤解だとわかってくれたんですね。もう会ってくれないかと心配して……あれ? 後ろにいるのはお友達の方、ですかね?」



 寸でのところで警棒の打撃を躱し、おまけに上杉を勢い良く跳ね飛ばすと、サラギは笑顔で駆け寄ってきた。



「何だ? お前ら、顔見知りか?」



 山崎の声色に不穏な響きを感じた七瀬は、相変わらず脳天気なサラギに苛立ちつつも、必死に訴えた。



「そう、友達! 今、友達同士、込み入った話してるの! だからどっか行け、お願いだから! 早く行って!」


「何してんだ、上杉! この男、とっとと捕まえろ! ガキの知り合いだ!」



 山崎が急かすまでもなく、既に間合いを詰めていた上杉はサラギの背中に警棒を叩き込んだ。


 糸の切れたマリオットのように、細長い身が崩れ落ちる。


 上杉は素早くうつ伏せに倒れた彼に乗り、後ろ手に手錠をかけた。



「さて、お嬢さん。お前にゃ拷問は効かないみたいだけど、こいつはどうだろう? 目の前で知り合いが痛い目に遭わされるのを見れば、少しは気が変わるんじゃないかな?」



 七瀬はぐっとくちびるを噛み、強く眉を顰め嫌悪感を露わにした。


 だが初めて感情らしきものを見せたのは逆効果で、却って二人にこの手段が有効であると知らせる形となってしまった。



「お兄さん、悪いね。恨むなら俺達より、この子と関わったことを恨んでくれ。こいつが素直に喋ってくれてりゃ、こんなことせずに済んだんだからな」



 上杉はそう言い放つと、サラギの腹に思い切り蹴りを食らわせた。サラギの顔が、苦痛に歪む。



「痛たた……ナナセさん、この人達、本当にお友達なんですか? 私には、あまり仲が良さそうには見えないんですが。失礼ですけれど、もしかして騙されてるんじゃないですかね?」



 苦しげに息をつきながらも、この期に及んで、サラギはまだ呑気なことを抜かす。


 しかし頭を蹴り付けられると、その口から漏れるのは、押し殺した呻きのみとなった。



 それを見ている内に、七瀬は様々な思いがないまぜになり、どうにもならない気持ちを吐き出すように声を荒げた。



「本当にアホだな、お前! こんなことする友達がいるわけないよ! お前を助けるために言った嘘だってくらい理解してよ、アホ! 何で逃げなかったんだよ、アホ! どこまでアホなんだよ、アホ!」



 執拗に急所ばかりを狙って繰り出される蹴りの応酬の中、七瀬の理不尽な罵倒を聞いていたサラギのくちびるが、解けるように綻んだ。




「……そうですか。この方々は、ナナセさんのお友達ではないんですね」




 次の瞬間、上杉の視界は地面から反転し、気が付けば生い茂る黒い葉に覆われた空を見ていた。


 引っ繰り返ったのだと理解する間もなく、今度は凄まじい激痛が足首を襲う。訳もわからないまま、上杉はのたうち回った。



「私のため、だなんて嬉しいことを言ってくれますねえ。けれど……逃げるなら、ナナセさんも一緒でなくてはいけませんよ?」



 上杉の蹴り足を踏み潰しながら立ち上がったサラギは、見慣れた笑みを浮かべ、七瀬に向けて腕を差し伸べた。


 捩じ切れた手錠の鎖が、小さく鳴る。

 男にしては華奢な白い手首からは、血が流れていた。



 何と、自力で引き千切ったらしい。

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