20.虚無


「手荒な真似して本当にごめんね、驚いたよね。でも、怖がらなくていいよ。君にお願いがあるだけだから。手っ取り早く言うと、所長じゃなくて、僕達に協力してほしいんだ」



 七瀬ななせを押さえ付けている男はポロシャツ姿の私服だったが、口ぶりからして、非番の同僚のようだ。


 あまりにも突然で不可解で予想外の事態に、七瀬は口の戒めを解かれたことにも気付かず、呆然としていた。



「ええとね、手柄の横取りとかそういうのじゃないんだよ? 僕達にも責任っていうのがあって、所長にしゃしゃり出て来られるとちょっと立場的に不味くなるんだ。少しややこしいけど、大人の事情っていうのが警察にもあるんだよ。わかってもらえるかな?」


「所長のことなら心配要らないよ。君が僕達に協力してちゃんと犯人が捕まれば、最終的には所長の功績にも繋がるからね。だから、君が何を見たのか、全部話してもらえる? それから、このことは誰にも秘密にしてほしい。後のことは、僕達がうまく処理しておくから。勿論、お礼はするよ」



 七瀬を間に挟み、二人は前後から口々に説得を始めた。



 それを聞いている内に徐々に思考能力が戻ってきた七瀬は、二人の愛想笑いを無理矢理貼り付けたような顔付きや、焦りの滲む言い訳がましい物言いから、嘘の臭いを感じ取った。



「……わかった。でもまず、私が本当に見たってのを証明しなきゃ話にならないよね? だから、腕を探して。見付けたのは一週間も前だし、腐って原型を留めてないかもしれない。拷問されたみたいにズタズタで、腕だってわからないくらいだったから」



 七瀬の証言に二人は顔を見合わせ、何やら目で合図し合った。


 遺体の状態と合致したらしい。


 すると制服の男は、転がる東條の手から点灯したままの懐中電灯をもぎ取り、三叉の木を中心に周辺を探索し始めた。



 残るは背後の一人のみ。逃げるなら、今しかない。



 狙いをすませ、七瀬は自分を捕える男の鳩尾に、渾身の肘鉄を食らわせた。



「ごっ!?」



 短い悲鳴を上げ、男が力を緩める。


 腕の呪縛を抜け出た七瀬は更に彼の膝横に下段回し蹴りを放つと、全速力で逃げ出した。



「くそ……っ! 待て、このガキ!」



 しかし、いくらうまく不意を突けたといっても、体格差がありすぎた。


 おまけに、相手は警察官だ。


 十メートルも進まない内に私服の男は立ち上がり、数々の訓練で鍛え抜かれた脚力で七瀬を追い詰め、あっという間に捕らえた。


 そして、怒りに任せてその華奢な体を地面に投げ倒す。


 今度は逃げられないよう彼女の背中に跨ると、両腕を後ろに交差させてがっちり拘束した。



「おい、ふざけんなよ。嘘でした、ごめんなさいなんて通用しねえぞ? 遺体から腕が持ち去られたことは、マスコミだって知らねえんだからな」



 先程までとはうって変わって乱暴な口調となった男は、七瀬の髪を掴み無理矢理上体を起こすと、頭を地面に叩きつけた。ぐったりした彼女の耳元に、遅れて戻ってきた制服の男が囁く。



「これ以上、痛い思いしたくないだろ? さっさと吐けよ。あのホームレスみたいになりたいのか?」


「…………リキさん殺したの、あんた達だったんだ」



 小さな呟き声は、熱くなった二人の男の脳髄を一気に冷やす程に冷静だった。


 思わず覗き込んでみれば、泥土や腐葉に塗れ、割れた額からの出血と鼻血で赤黒く染まった小さな面の中、声以上に冷ややかで死体以上に無機質な瞳が迎え討つ。



「ち、違う! 俺達じゃない! あのホームレスは、俺達じゃない!」



 制服の男が、必死に弁明する。私服の男も激しく同意した。



「そうだ、俺達は人殺しなんてしてない! だからあの腕が必要なんだよ!」



 ホームレスは?

 人殺しなんて?



 その二つの言葉が、七瀬に更なる疑惑を灯した。



「つまり……リキさん以外は、あんた達がやったってこと?」



 途端に二人は、鉛を飲み込んだかのように押し黙った。


 しまったと言わんばかりの表情と、気まずそうに逸らした視線が、何よりの肯定の証だ。



「小動物連続虐殺事件は、犯人探してる警察官の仕業でしたって? バッカみたい、そりゃ捕まんないよね。で、自分達の真似した愉快犯だか模倣犯だかに、陥れられたの? 間抜けにも程があるよ」



 心底呆れたとでも言いたげな嘲りに満ちた目で二人を見遣ると、七瀬はそっぽを向いた。



「自業自得だよ。リキさんだけじゃなくて、沢山の動物殺して模倣犯まで出したんだから。そんな奴の言うことなんか、誰が信じるもんか。責任取って、償いに殺人罪も被ればいいんだ」


「うるせえ! うるせえ、うるせえ! そんな小生意気な態度取ってられんのも今の内だ、くそガキ!」



 七瀬の言葉に激昂した私服の男は、体重をかけ彼女の腕を背中でクロスさせた形で一際強く抑え付け、空いている方の手で左の小指を掴んだ。



「腕の在処を言え。言わなければ、一本ずつ折っていく」



 制服の男は黙っている。拷問に異論はないようだ。



「……何で動物を殺したの」



 顔を背けたまま、七瀬は脅しなど聞こえていないかのように、これまでと変わらぬ口調で静かに尋ねた。



「質問してるのはこっちだ! お前はただ聞いたことだけ答えりゃいいんだよ! オラ、これでもまだ言わねえか!?」



 男の手の中で、乾いた小枝を折るような音が小さく鳴る。



 しかし――――彼女から返ってきたのは、苦悶の悲鳴でも鳴き声でもなく、一つ前の台詞と全く同じ、抑揚のない問いかけだった。



「何で動物を殺したの」



 私服の男は、握りしめていた七瀬の指を見た。



 細く白い小指は、薬指とは真逆の方向に曲がり、掌と平行を描いている。いくら関節が柔らかくとも、本来では曲がり得ない角度だ。手応えはあった。間違いなく折れている。


 なのに彼女は折られる瞬間、全く反応しなかった。緊張からくる筋肉の強張りすら、感じられなかった。骨折した指を捻り回している、今この時も、だ。



 そう――――まるで、死体と同じように。



 男の背に、ぞっと戦慄が走った。



 そこに、状況を全く察していない制服の男が進み出てきた。



「お嬢さん、我慢強いんだね。それじゃ、これはどうかな!?」



 語尾を言い終えるより先に、彼は自分の二の腕ほどもない細い足に、思い切り警棒を振り下ろした。


 一度では済まない。腿の柔らかい部分を狙って、何度も何度も叩き込む。


 その行為で元来の加虐心が煽られたのか、男は歪んだ笑みを浮かべていた。



 だが、それもすぐに消える。



「何で動物を殺したの」



 壊れた機械音声のように、七瀬はまた同じ台詞を吐いた。


 彼女の足は腫れ上がり、擦り切れた薄いデニム地の隙間からは痛々しい内出血が覗いている。普通なら、軽く触れられるだけでも苦痛に喚くくらいのダメージだ。



 制服の男は、恐る恐る視線を動かした。


 慄いた面持ちでこちらを見つめる同僚と、その下に覗く作り物めいた鳶色の目。



 それらを捉えた制服の男は、思わず警棒を取り落とした。


 だが、込み上げる悪寒を振り切って、私服の男を乱暴に押し退かせ、今度は彼女を滅茶苦茶に蹴り付け踏み躙った。




 それでも――――返ってきた言葉は、同じだった。




「何で動物を殺したの」




 彼らを見上げる瞳には、何の感情も感慨も覗えなかった。



 まっさらなまでに何もない、無色透明の虚無だ。



 私服の男と制服の男はその眼差しに射竦められ、石のように凍り付くしかできなかった。



 この娘には嘘も拷問も通じない。

 どうしたらいいのだろう。どうしたら。



 思うが早いか、制服の男は七瀬を仰向かせて馬乗りになった。


 そして、その喉に両手をかける。



「う、上杉うえすぎ!? お前、何を……何をしているのか、わかってるのか!?」



 上杉と呼ばれた制服の男は、悲痛な顔で止めに入った同僚を仰ぎ見た。



「黙れ! こうするしかない、もうこれしか方法がないんだ! 山崎やまざき、お前だってこんなことで一生無駄にしたくないだろ? このガキさえいなくなれば、なかったことになる。俺達のことは、誰も知らない。あとは『あいつ』の口さえ封じれば……」


「おい……お前まさか、あいつも殺るつもりなのか? やめろ、やめてくれ、嫌だ。俺は嫌だ! 目を覚ませ、上杉! 俺達は確かに、沢山の動物を殺してきた。何匹殺したって、良心なんざ少しも痛まなかった。しかしお前が今、手にかけようとしている相手は動物じゃない! 俺達警官が守るべき、人間なんだぞ!?」



 私服の男、山崎が必死の形相で縋り付く。上杉は激しく首を横に振るだけで、手を緩めようとはしなかった。



「じゃあどうしろっていうんだ!? 他に何か方法があるなら教えてくれよ! 俺、秋には結婚控えてるんだぞ……早月に何て言えばいい? お前んとこだって、もうすぐ子供生まれるんだろう!? こいつは、俺が殺る。あいつもだ。もう、後戻りはできない!」



 気が付けば、二人揃って泣いていた。



 上杉は涙を流し嗚咽を漏らしながらも、十の指にぐっと力を込めた。

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