18.決意
二人に見送られ
しかし彼女は自宅の方向ではなく、リキが殺された廃工場へと足を向けた。
行って、どうしようというわけではない。ただ何となく、もう一度この目で確認したいと思ったのだ。
今回の浮浪者殺人事件について、七瀬も退院してから色々と調べてみた。
被害者はホームレスの仲間内でリキと呼ばれていた男で、本名不明。解剖の結果、二十代中盤から後半くらいと判明したらしい。
第一発見者は近所に住む老人で、夕刻過ぎに犬の散歩をしていた時、建物の入口から這い出た状態で力尽きているリキを見付けたそうだ。
リキの体には凄まじい暴行の痕があり、傷の殆どから生体反応が出たことから、生きたまま激しく責め苛まれたと考えられている。凶器に使われた刃物や鉄パイプは現場に残されていたが、指紋の類は発見されなかったとのことだ。
しかし、片腕が無くなっていたという事実は、どのメディアでも報道されていなかった。
恐らく、犯人だけが知る情報として敢えて隠蔽しているのだろう。
時刻は午後七時。
七瀬が入院している間に梅雨明けが宣言され、暦の月も変わった。それでもまだ、熱気を孕んだ空気は来たる夏の清々しさはなく、相も変わらず湿っぽく澱んでいる。
七瀬の予想を裏切り、現場の廃工場は閑散としていた。立入禁止のテープやブルーシートの類は既に撤去され、見物客の一人もいない。遺体が発見されたという場所も、今は容易く近付くことができた。
薄れたチョークの人型の周辺には、僅かばかりの花や線香が供えられている。七瀬もそれに倣い、コンビニで買ってきたペットボトル飲料を一本置いた。
けれども、手を合わせる気にはなれなかった。
血の痕も生々しい、リキが生死の境を越えた場所を、ただじっと見つめる。
…………死んでも語りかける、か。
ふと、七瀬の脳裏にサラギの言葉が蘇った。
この人が彼に語りかけるとしたら、何を言うだろう。彼は、この人から何を聞きたかったのだろう。泣き言か恨み言か、はたまたあちらの世界についての与太話か。
そこまで考えてから馬鹿馬鹿しい、と七瀬は心の中で一蹴した。
死者が生者に語りかけるなど、ありえない。
何故ならこちらとあちらは、絶対的に分断されているのだから。
「…………君、こんなところで何をしてるのかね?」
不意に声をかけられ、七瀬ははっとして顔を上げた。
こちらにライトを向け厳しい眼差しを注ぐのは、いつか見た頑固そうな中年の警官だ。
僅かに逡巡した七瀬だったが、すぐに思い切り、立ち上がり様に告げた。
「あの……私、数日前に変なものを見たんです。人の、腕みたいなものを」
それを聞くや否や、警官は七瀬の元へと駆け寄ってきた。
「詳しく聞かせてくれないかな? 出来れば今すぐ、それを見たというところへ案内してほしい」
表情こそ平静を取り繕っていたけれども、彼女の肩を掴む手には強い力が込められていた。
やはり、腕というキーワードは、犯人に繋がる手掛かりらしい。
瞬きをした一瞬、七瀬の瞼の裏にサラギの姿が浮かんだ。
死者は語りかけない。けれども死体は語る。
魂などというあやふやなものとは違い、現世に確かな形として存在しているのだから。
まだ食い残されていれば、の話だけれども。
中年の警官は
慣れた手付きで身分証を提示し自己紹介すると、東條は乗ってきた自転車を引いて七瀬の歩調に合わせながら、世間話を交えつつあれこれ尋ねてきた。
「ふうん、変なものを見た翌日から今朝まで入院とは……また、随分とタイミングが悪かったもんだねえ。それで、具合はもういいの? 梅雨明けしたらしいけど、まだ暫くジメっとした日が続くみたいから、体調管理はしっかりね」
「はあ」
殆ど適当に相槌を打つだけだったけれども、七瀬は聞かれたことには正直に答えた。
いや、答えさせられたというべきか。
東條は百戦錬磨の巧みな話術で警戒心を解きほぐし、七瀬から様々なことを聞き出していった。
事件当日に取った彼女の一連の行動を始め、彼女の勤め先から住まい、果ては厄介な疾患を持ち、数年に渡り通院中の身であることまでも吐かせた。
ところが、東條がどう頑張っても話してもらえなかったこともある。
それは七瀬という苗字以外の名前――つまり、彼女のフルネームだ。
「そんなに知りたきゃ、渡した荷物漁って調べれば。その前に弁護士と主治医呼んでくださいね」
七瀬は眉一つ動かさず淡々と言い放ち、更には疑っているなら無理に行かなくていい、聞かなかったことにしてくれて構わないとまで吐き捨てた。
彼女の言う通り、コンビニ袋と一緒に荷台の箱に預かったバッグの中身を調べればすぐにわかることだ。
しかし、ここで無理強いして反感を買えば、本当のことを話してくれなくなるかもしれない。
「わかったよ、今は必要ないことだ。無理には聞かない。だけど然るべき時が来たらちゃんと話してもらうから、そのつもりでね」
口調はあくまで優しく、だが眼光に凄みを効かせて威圧してみせたものの、七瀬は少しも動じなかった。暖簾に腕押しとは、まさにこのことだ。
東條がやれやれとばかりに溜息をついたその時、軽やかな電子音が鳴った。
「ああ、帰りが遅いから心配されたようだな。うっかり連絡し忘れていたよ」
七瀬に苦笑いを向けてから、彼は音の発信源である携帯電話を取り出した。そして有力な目撃情報を得たので、検証に向かう旨を伝える。
だが行き先を聞かれると、東條は少し困ったような目で七瀬を見た。
「…………緑ヶ丘公園、遊歩道沿いの雑木林の中」
七瀬はあっさり答えた。東條は意表を突かれたようだったが、聞かれなかったから言わなかっただけで、隠していたわけではない。
名前以外に隠していることといえば、福沢と会ったこと、そして――サラギがその腕を持っていたことだ。
どうせ打ち明けたところで、一笑されるに決まっている。だからこそ、七瀬は誰かに真実を見極めてもらいたいと思っていた。
今となっては現実感も薄れ、朧げな悪夢のように感じられるけれども、彼女が遭遇した『人を食う者』が存在し、まだこの街にいるのなら、このまま野放しにはしておけない。
かといって、彼が殺人犯である確証もないのだ。
悶々と思い煩うしかできなかった七瀬にとって、東條はそれを委ねるに相応しい相手であった。交番に行き先を告げたのなら、何かあれば応援も期待できる。
歩くこと、二十分強。
漸く到着した薄暗い公園の入口は、大口を開けて獲物を待ち詫びる巨大な闇色の獣のようだった。
七瀬が僅かに立ち竦む。
その様子を見て、東條は今更ながらに彼女が恐ろしいものを目撃した被害者であると共に、これからそれをもう一度確かめねばならない、もしかしたら犯人が潜むかもしれない場所へ行かねばならないことに怯える、一人のか弱い少女なのだと思い出した。
「七瀬さん、怖がらなくても大丈夫だよ。君の安全は私が保証する。たとえ犯人に遭遇したとしても、全力で守るからね」
皺の描く線すらも凛々しく雄々しい、実直一徹といった強面に浮かべた笑みは鷹揚で、意外にも柔らかだった。
じっと東條を見つめてから、七瀬は少しの間を置いてから小さく呟いた。
「所長さん、笑うとちょっと可愛いね。可愛いは正義だよ。流石は正義の味方だね」
褒めてるのか貶してるのかわからないが、少しは緊張が解れたようだ。
東條は制帽の上からこめかみを掻き、こちらを凝視したままの七瀬に、もう一度笑いかけた。
「う〜ん、喜んでいいのかな? 取り敢えずは褒め言葉と受け取っておくよ。さあ、その場所に行こう」
相変わらずの無表情ではあったけれども、しっかり頷いて先導を始めた七瀬の背中には、もう恐れの影はなかった。
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