17.内蓋


 良い意味でも悪い意味でも賑やかな一般病棟とは違い、特別病棟は静かで整然としていた。


 ここに来るまでの途中、何人かの医師や看護師に声をかけられ挨拶だけは交しはしたが、藤咲ふじさきの表情は固く纏め上げた髪と同様、一切揺るがなかった。


 目的地である病室の前に立つと、彼女は軽く扉をノックして来訪を告げた。


 内部はバスやトイレだけでなく、簡易キッチンやドレッサーまで完備されている。モデルルームのような外観ではあるが、ここもれっきとした病室の一つだ。


 扉を開けて見舞客用の応接スペースを通り抜け、更に奥へと進んだ先に、彼女がわざわざ仕事の合間を縫ってまで会いに来た人物はいた。



七瀬ななせさん、こんにちは。具合はいかが?」


「まぁ、ぼちぼち」



 背もたれを起こしたベッドに身を預けたまま、七瀬が小さく答える。



「…………そうは思えないけど」



 藤咲は彼女の腕に視線を落とし、そこから伸びるチューブが繋ぐ点滴を指差した。



「熱が引いても全く食事ができないって……どうしたの? 単に病院食が好みじゃない、っていう理由じゃないわよね。良かったら、聞かせてくれる?」



 流石は長年の主治医といったところか。入院してから続く七瀬の食欲不振がどこかおかしいと見抜き、熱が下がった頃合いを見計らって訪れたらしい。


 七瀬は溜息を落として、降参の意を示した。



「……固形物が、気持ち悪いの。目の前で……肉、食べる人を、見たせい、だと思う。その時は、そこまででもなかったんだけど、後になってぶり返してきて…………色々、思い出して」



 その場面が蘇ったのだろう。不快感のあまり、強く眉を寄せ口を押さえながら、途切れ途切れに話す七瀬に、藤咲は慌てて寄り添い、薄い肩を優しく抱いた。



「わかったわ、落ち着いて。大丈夫、もう思い出さなくていい」



 子供をあやすように何度も何度も同じ台詞を繰り返し、背中を撫でる。


 どうやら七瀬は、誰かの食事風景を目の当たりにしたことがきっかけで、フラッシュバックを起こしたらしい。


 彼女の中に根強く残る爪痕は、四年経った今も少しも色褪せず、いまだに生々しく赤い傷口を晒し、ほんの僅かな衝撃でも血を噴き出す。

 このところ病状は改善の兆しを見せていたように思えたけれども、本質は当時から一向に変わっていないのだ。


 それを改めて痛感した藤咲は、悔しさとも悲しみともつかない感情に奥歯を噛み締めた。



「先生、ありがと……先生に話したら、少し落ち着いた。心配かけてごめんなさい。食事、栄養バランス考えて、私のためにメニュー用意してくれたんだよね。なのに残してばかりで、本当にごめんなさい。少しずつ、頑張る」



 だが七瀬はそれ以上取り乱すことなく、普段通り綺麗に感情を排した顔で、淡々と反省の言葉を述べた。それを聞くと、藤咲は一層やりきれない気持ちになった。


 肉類を絶対的に受け付けない彼女専用の食事はどれも手付かずではあったけれども、メニューの内容を知っているということは、七瀬なりに食べようと向き合い、努力していたのだ。



 四年前の『事件』で、七瀬は様々なものを失くした。


 笑うことも泣くこともしなくなり、睡眠中も安らげる時はなく、辛いフラッシュバックに襲われる。


 それでも彼女が黙って耐え続けるのは、その全てを凌駕して有り余るほどに、揺るぎない意志があるからだ。



 藤咲は知っている――七瀬の望む『死なないこと』とは、文字通り生への渇望などではないのだと。


 『娘の手を借りて自殺した』母親と、生死という区切りで互いの存在を分かつことなのだと。


 そしてそれが、七瀬にとって唯一の罪滅ぼしであり、また唯一の親孝行でもあるのだと。



 人形のように黙って窓の外を眺める七瀬を見て、藤咲は自分に何ができるのだろう、とこれまでにも幾度も己自身に繰り返してきた問いを投げかけた。



 死なないためだけに生き続けるこの少女を、救う手立てはあるのか。


 そもそも、彼女にとっての救いとは何なのか。


 もはや、何の救いも必要としていないのではないか。



 自問自答すればするほど遣る瀬無さは募り、病室を出た後も藤咲の表情は暗く沈んだままだった。




「オッス、オラ筒見つつみ。よろしくな! しっかしおめえ、すんげえ愛想悪いなあ。そういや名前は何ていうんだ?」


「吾輩は七瀬だ。少し休暇を取っている間に同朋の名も忘れたか、うつけ者め。お前も蝋人形にしてやろうか」



 レジカウンターを挟んで、気の置けない仲ならではのひねくれた言葉を交わし合うと、筒見は破顔し七瀬は肩を竦め、一週間ぶりの再会を共に喜んだ。



「お見舞いのお花、ありがとね。面会できなくてごめん。ずっと調子悪かったんだ」



 申し訳なさそうに、七瀬が買い物カゴを差し出す。それを受け取った筒見は、いつものようにからりと笑い飛ばした。



「そんなのいいって。それにしてもいきなり倒れた時は、あたしの方が心臓止まるかと思ったよ。ホントびっくりしたあ。具合が悪い時はちゃんと休むか、言ってくれるかしなきゃ許しませんからね!」



 教師のような口調で窘められると、七瀬は平身低頭する他なかった。


 熱が下がらぬままバイトに出てきたくせに、退勤直前に倒れてそのままオーナーの車で救急外来に運ばれた挙句、入院してシフトに穴を空けてしまったのだ。多大な迷惑をかけた皆々様には、お詫びの言葉もない。



「筒見さんの言う通りだよ。私も許しません」



 更にはバックヤードで作業していたチーフまで出てきて、参戦し始める。筒見が呼出ボタンで知らせて、味方を召喚したに違いない。


 オーナーがおっとりしたパグなら、妻であるこちらは気の強いシーズーといったところか。小柄な体に似合わぬ勝気な顔で不敵に笑ってみせる様も、どこか好戦的に見える。


 しかし、第一印象こそ取っ付きにくいが、実は人見知りなだけで、本当は誰よりも思いやり深く、尚且つ天然気質の面白い人なのだ。


 七瀬も、それをよく知っている。


 なので気になっていたことを一つ、申告しておくことにした。



「チーフも本当にすみませんでした。あの、差し出がましいようですけど、オーナーの車にあった芳香剤…………あれ、トイレ用です」


「はぁん!? トイレ!? トイレってあの、便所の!? 便所のトイレ!?」


「ぶひゃ!」



 彼女の口癖でもある『はぁん』だけならまだしも、続く激しい狼狽えっぷりと意味不明な問いかけに、筒見は耐え切れず噴き出してしまった。



「チーフ、ひどいよ……! オーナーを汚物扱いするなんて……! 逆スメハラだよ……っ!」


「ち、違うの! あれくらい大きい容器の方が長保ちするかと思って……」


「しかも未開封でした。外装は破られてたけど、内蓋が開いてなかったから、効果は全くないかと」


「あ〜っはははは! みっ、未開封って! 確かに長保ちはするけど……っ、芳香剤の意味ねえ〜!」



 レジを打つことすら忘れ、腹を抱えて大笑いする筒見と七瀬を交互に見ると、チーフは更なる爆弾を投下した。



「…………内蓋? 何それ? そういうの開けなきゃ、使えない仕組みなの?」



 笑い転げるあまり腹筋崩壊しかけている筒見に代わり、七瀬は迷惑をかけたお詫びも兼ねて、チーフに芳香剤の正しい使い方を教えた。


 こうして坂上さかがみ家の芳香剤は、半永久的に減らないという不名誉な歴史を閉じたのだった。

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