16.断絶


 スニーカー越しに足裏から届く地面の感触が、ひどく覚束ない。浮いているというより、踏む度に体重で歪む空気の床を歩いているようだ。


 福沢ふくざわと別れてから、七瀬ななせはサラギと出会った公園裏の雑木林に向かっていた。彼は、いまだにそこで寝泊まりしているらしい。本人の口から聞いた覚えがある。


 福沢が懸念するように、サラギはリキなる人物を殺した犯人である可能性がある。ならばこれは、無謀ともいえる行為だ。


 しかし、七瀬には恐怖も危機感も全くなかった。


 サラギを信じてほしいなどという、福沢の馬鹿げた訴えに感化されたわけではない。現実感が沸かないとでもいうのだろうか、あの男が自分を手にかける場面など全く想像つかなかったのだ。



 それに、何らかの危険が及ぶとすれば、きっとあの声が叫ぶだろう――こちらに来るな、と。




「……」

「…………」



 閑散とした公園を抜け、あちこち苔生し欠けた煉瓦造りの遊歩道を進み、闇深い雑木林に入り込むと、七瀬の耳に微かな話し声が届いた。


 話し声と呼ぶには、語弊があるかもしれない。どうやら声を発している者は一人らしく、途切れがちに続くそれは、独り言のようだったからだ。


 足音と気配を殺し、聞き覚えのある声と見覚えのある背中の持ち主に近付く。すると語りかけるようなおかしな呟きに、更におかしな音が混じっているのに七瀬は気付いた。



「……う〜ん、やっぱり無駄骨でしたかねえ? しかし、そこを何とか答えてくれませんか。ねえ、頼みますよ、リキさん」



 意味不明な問いかけの後に、がじゅ、がり、ぐぢ、と耳障りな音色が響く。


 それが何の音か考えるより先に、七瀬の口から言葉が漏れ出た。



「…………何してるの」



 初対面の時と同じ場所、同じ格好――特徴的な形をした木の幹に背をもたれ、歪に盛り上がった太い根の上に腰を下ろしていたサラギが、話し声と動きを止める。それからこれもまた初めて見た時と同じように、不思議そうな目で七瀬を見上げ、赤黒く濡れたくちびるを開いた。



「これはこれは、ナナセさん。昨日は具合が悪そうでしたけれど、お体はもうよろしいんですか?」


「何をしているの」



 今度は語気を強めて問う。


 彼女の質問を受け、サラギはいつもの甘く冷たい奇妙な微笑を浮かべて立ち上がった。



「ああ、失礼しました。ご紹介しましょう。こちら、リキさんとおっしゃいまして、私の知人……になる予定だった方です」



 初めて出会った時の再現のような光景であったが、恭しいともいえる手付きで彼が掲げ見せたのは、しかし、子猫などではなかった。



 紛う事なき、人間の片腕だ。



 しかも五指は折り砕かれバラバラの方向を向き、指先は爪を剥がされた上で潰され、皮膚のあった部分は、中身が引っ繰り返されたかのように隙間なくズタズタに切り裂かれている。


 どのような最期を遂げたのか、想像するも悍ましい肉塊を認めると、七瀬の顔から一気に血の気が引いた。



 凍り付く彼女の前で、サラギは手首を掴んだまま肘から先だけとなった腕に躊躇いなく齧り付いた。ぶつり、と肉が噛み切られ、凝固し始めた血液がどろりと垂れる。



 そこで七瀬は、漸く思い出した。



 そうだ、そうだった。

 彼は、何でも食べるのだ。


 食器でも鉄でも石でもプラスチックでも、猫でも――――人間でも。



「……こうしてね」



 存分に咀嚼した肉を掌に吐き出し、それを愛おしげに眺めながらサラギが言う。いつもと変わらぬ穏やかで優しい口調は、状況の異様さを一層際立たせた。



「リキさんがお望みだったように、私のお手伝いをしていただいているんです。果たして、リキさんとはどんな方だったんでしょうねえ……生きている内に仲良くなりたかったです。そうすればきっと、彼は死んでも私に語りかけてくれたんじゃないかと」


「黙れ」



 サラギの言葉を遮り、七瀬が鋭く告げる。


 サラギは齧り取った死肉から視線を彼女に向け、そっと歩み寄った。



「ナナセさん……? どうかしましたか?」



 七瀬は近付くサラギから逃れ、素早く後退し距離を取った。


 彼を見つめる瞳には、これまで見せることのなかった確かな感情――底知れぬ憎悪に燃えていた。


 サラギが足を止める。


 七瀬はそれを確認してから、再び口を開いた。



「サラギくん、私にはね、たった一つだけ願いがあるの。それは、『死なないこと』」



 発せられた声は、やけに静かで落ち着いていた。



「馬鹿馬鹿しいと思ってる? 笑いたきゃ笑えばいい。だけど、私は死ぬわけにいかない。生きなきゃならない理由がある。出来る限り長く生き続けて、この世にしがみついていなきゃならない。これが、私の生きる唯一の意味だよ」



 サラギは何も言わず、相変わらず捉えどころのない表情で悠然と彼女を眺めている。構わず、七瀬は続けた。



「だから、少しでも死の危険性があるものは排除する。お前がここで何してたか、リキって人に何したのかは知らないし知りたくもない。たとえ人殺しだろうと人食いだろうと、責めやしないよ。だけど」



 そこで一旦言葉を区切り、彼女ははっきりと宣告した。



「私には、二度と近付くな」



 その一句には、あらゆる負の感情を凝縮した、絶対的な拒絶の意志が籠っていた。



 そのまま走り去った七瀬の後ろ姿が完全に見えなくなると、サラギは漸く小さく吐息を落とした。



「よくもまあ、言いたい放題。言い訳する暇もくれませんでしたねえ。それにしても……『生きること』ではなく『死なないこと』ときましたか。どちらにせよ、きっぱりと言ってくれたものですな」



 苦笑混じりに独りぼやき、俯いて目を伏せる。少しの間があって、彼の肩が小刻みに揺れ始めた。



 喉奥から漏れ出たそれは、嗚咽に似た――込み上げる笑いを堪える声だった。



「全く…………面白い。何とも気に入らない娘だ。愉快で不愉快で、吐き気がするほど素晴らしい。斯様な者に出会えるとは……この世も、まだ捨てたものではないようだ」



 酷薄な笑みの形に吊り上がり、薄く開いた口元は、血の噴き出る寸前の浅い傷口に似ていた。


 サラギが閉じていた目を開く。


 指の隙間から覗いたのは、凄惨なまでに暗い光を宿した、琥珀色の瞳だった。



「ですが今は、こちらを優先せねばなりませんよねえ……」



 闇をも飲み込む奈落を具現化したような目をリキの腕に向けると、サラギはもう一度強くくちびるを吊り上げ、再びその肉に歯を立て始めた。

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