15.切願


「ちらっと中を覗いたら、一面血の海だったぞ。凄かったなあ」


「警察来る前に見た人の話じゃ、原型留めてないくらいグチャグチャにされてたって……」



 事件のあった廃工場は普段の静けさを失い、訪れた野次馬の群れで喧騒に包まれていた。


 さほど大きくもない建物だが、周囲はロープで封鎖されている上、出入口から窓に至るまで厳重にブルーシートに覆われているため、中の様子は全く伺えない。人だかりの隙間から確認できるのは、慌ただしく動き回る警察関係者達の姿だけだ。


 事件発覚から、もう数時間が経っている。遺体はとっくに回収されているだろう。


 何のためにここまで来たんだかと脱力し、落としかけた七瀬ななせの肩を掴む者がいた。


 振り向くとそれはサラギでも誰でもなく、見たこともない中年過ぎの男だった。全体的に薄汚れ、髪も肌も荒れ放題で微かに異臭を纏わせている。世間知らずの部類に入る七瀬でも、ホームレスだと一目でわかった。



「あんた、サラちゃんの知り合いだろう? 話がある」



 こちらが尋ねるより先に、そのホームレスはみすぼらしい姿格好からは想像もつかないほど強い意志の籠った眼差しで訴えかけてきた。


 相手はサラギのことを知っていて、しかも七瀬が彼と関わり合いがあることも知っているらしい。


 七瀬は一つ頷くと、彼に促されるがまま、廃工場を後にした。




 二人がやって来たのは、無人になって久しい寂れた神社だった。


 長い間手入れもされず、荒れ放題の境内の隅には、男が今住まいにしているというテントがひっそり置かれている。しかし、己の生活空間に見知らぬ他人を立ち入らせるのには抵抗があったようで、そこは軽く紹介するだけに留め、男は七瀬を更に奥にある拝殿へと導いた。


 石段に腰を落ち着けると、ホームレスの男はテントから取ってきた二つの缶コーヒーの一つを七瀬に手渡してから、福沢ふくざわと名乗った。



「罰当たりだと思ってるか? だが一応、毎日本殿に参ってるし、賽銭も入れてんだぞ。御神体なんざとっくになくなってるだろうが、これでも礼儀は尽くしてるつもりだ」



 七瀬は缶コーヒーを受け取った時と同様、微塵も表情を変えなかった。あまりの愛想の無さに、福沢が口をへの字に歪める。


 浮浪者とこんな場所で二人きりという状況に、怯えているのではないかと思い気を紛らわせてやろうとしたのだが、そんな気遣いは無用だったようだ。



「話って何」



 疑問符すら取り払った冷淡な言い方で七瀬が問う。


 すると福沢は、重い溜息を落として答えた。



「心配で駆け付けたんだと思うが……殺されたのはサラちゃんじゃねえ。俺の仲間の、リキって奴だ」



 あっさりと結論を告げられ、七瀬は拍子抜けした。となれば、見知らぬホームレスになどもう用はない。


 そう思って立ち上がりかけたが、福沢が発した悲愴な声が、彼女の足を押し留めた。



「…………俺、見ちまったんだ。サラちゃんに、似た男が……リキの死体があったとこから、出て行くのを」



 それを聞くと、七瀬の仮面じみた面が強張った。



 福沢曰く、留置所から出たばかりで仕事もなく、また軽い知能障害を持つリキを心配し、今夜も彼の住まいである廃工場に差し入れに出かけたという。


 そこでたまたま、現場から立ち去る男を目撃した。


 周囲には外灯もなく、暗闇で後ろ姿を見ただけなので、背格好が似ているだけの別人の可能性もある。

 といっても、あれだけの背丈を持つ人物はそういない。

 また、サラギは例の事件の犯人探しを手伝いたいと申し出たリキが、あの廃工場を住処にしていることも予め知っていた。


 そして、七瀬の店に立ち寄ってから訪れたと考えると、時間も一致している。



「本当は俺が第一発見者なんだが、それも含めて警察には何も言ってねえ。サラちゃんだと決まったわけじゃねえし、それに、サラちゃんは犯人を捕まえるって言ってたんだ。俺は信じてる。俺を助けてくれたサラちゃんが、仲間を手にかけたりするはずがねえ」



 強い口調で一言一言噛み締めながら、福沢はコーヒーの缶を握る両手に力を込めた。


 七瀬には、その姿が己自身に言い聞かせているように見えた。裏を返せば、疑念を抱いている証だ。



「話はそれだけ? あなたが見た不審な奴が、サラギくんだとしても私には関係ないよ。信じたいなら勝手に信じたら」



 にべもなく告げ、七瀬は今度こそ立ち上がった。


 だが、福沢は悲痛な表情で彼女のガラス玉みたいな冷ややかな瞳を真っ直ぐに見つめ、必死に哀願した。



「待ってくれ! サラちゃんが犯人を捕まえようとしてるのは復讐だとか言ってたが、本当はあんたのためなんだろう? あんたはサラちゃんを信じないのか? 俺は、あんたには、あんたにだけは、信じてほしいんだよ」


「そっちの価値観を押し付けないでくれるかな。勘違いしてるかもしれないけど私、サラギくんのことなんて全然知らないよ。そんな奴を簡単に信用するほど、お人好しじゃない」



 何の感情もない、徹底的なまでに淡々とした声で、七瀬は言い捨てた。いつまでも冷然たる態度を崩さぬ彼女に業が煮えたのか、福沢の双眸に憤りが滲む。



「あんた……サラちゃんに、何を欲しいと言ったんだ? サラちゃんはあんたのために、その欲しいものってやつを贈るために、並の奴ならすぐに音を上げちまうようなきつい仕事してんだぞ?」


「何のこと?」



 七瀬はそこで初めて、不快さを露わに眉を寄せた。


 こちらから与えたことはあれど、サラギに何かを要求した覚えはない。欲しいものなど、自分でも思い付かないというのに。



「しらばっくれるな。サラちゃんに聞いたら、十万はくだらねえモンだっつってたぞ。初期投資以外にも色々と金がかかるって」



 その言葉から、七瀬の脳裏に閃きが走った。


 サラギが食事している間、コンビニから持って帰った無料の地元情報誌を真剣に読み耽っていたことがあったのだ。確かにあの時は、掲載されていたものを買うかどうするか、悩んではいた。


 その様子をこっそり覗き見て、勝手にプレゼントするつもりになっていたに違いない。


 先程までのしおらしさは何処へやら、仇でも見るような目で憎々しげに睨み付ける福沢に向けて、七瀬は静かに答えた。



「…………わかった」



 それから手付かずだった缶コーヒーを開け、一気に飲み下す。しがみつく福沢の手をそっと解くと、七瀬は彼の目を間近に見据えた。



「私が本人に聞く。これのお礼に」



 目の前に差し出された空き缶を受け取り、福沢は半ば呆然と頷いた。


 それを確認すると、七瀬はご馳走様と一言残し、福沢の隣をすり抜けていった。



 鬱蒼とした暗い境内を離れ、遠くなっていく背中に、福沢は思い出したように慌てて声をかけた。



「な、なあ! あんた、怖くないのか? もしかしたら、とは考えないのか? やっぱり……サラちゃんを、信じてるのか?」



 鳥居から今まさに出ようとしていた七瀬が、振り向く。


 近くにある外灯に薄っすら照らされた顔は、精巧なキャストドールのように無機質で、とても生きた人間には見えなかった。



「おねだりした覚えのないプレゼントとやらを、丁重にお断りするついでだよ。それから申し訳ないけど、私には信じるって言葉の意味がわからないんだ。だからきっと、誰も何も信じてない」



 そう言い残し、七瀬は神社から出ていった。



 一緒に行くべきか悩んだ福沢だったが、彼女の後ろ姿から発せられた『付いて来るな』という無言の威圧に押し留められ、結局追うのをやめた。


 彼の当初の目的は、彼女に己の見たものを全て打ち明け、判断を委ねることだった。

 結論としては達成できたけれども、果たしてこれで良かったのか。


 福沢は急いで本殿へと走り、有り金を全て賽銭箱にぶち撒けた。そして手を合わせ、そこに一欠片でも神の残滓があればと懸命に祈る。



 リキの冥福を、サラギの無実を、そして七瀬の無事を――――いるかどうかもわからない神に願うことだけが、今の彼にできる全てだった。

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