14.呼声


 暗闇を水で溶いたかのように、朝陽が夜の帳を滲ませていく。紫から真紅へと移り変わるグラデーションの空に照らされ、徐々に街の姿が輪郭を明確にしていく。


 前日と少し同じで少し違うこの景色を、前日と全く変わらない思いで迎える者もいれば、前日とは劇的に異なる感情と状況をもって迎える者もいるだろう。


 この同じ空の下にはたくさんの人間がいる。


 なのに、そんな当たり前のことにも現実感が沸かない。


 自分の存在すら朧げで遠い。


 この風景を眺めていると、いつもこんな気持ちになる。


 誰もいない何もない、無色透明の世界に霧散していくような――どこまでも静かで虚ろな心地。



 それが今日は特に強く感じられるのは、きっとつい先刻まで見ていた夢の余韻が深々と頭に残っているせいだ。


 七瀬ななせは遮光カーテンを閉め、朝焼けを視界から遮断した。そこに丁度、電子音が小さく鳴る。音の発信源である体温計を見ると、表示された数値は三十九度――道理で普段以上に眠りが浅かったわけだ。


 特に無理をした覚えはないが、このところ昼夜の気温差が激しかったため体調を崩したのだろう。幸い、今日はバイトも病院の予約もない。


 冷蔵庫からゼリー飲料のパウチを一つ取り出し、常備していた解熱剤もろとも飲み下すと、七瀬はソファに身を投げ出した。そしてガラステーブルに置かれた『かわいいニャンコの育て方』を手に取る。


 猫はこんな時どうするのだろうと思い、『げんきがなくなったらどうするニャン?』のページに目を通してみた。どうやら猫の風邪は人よりも重症のようで、放っておくと衰弱死してしまうこともあるらしい。



『ぼくたちはかわいいだけのぬいぐるみじゃないんだニャン。生きてるから困ることもたくさん起こるニャン。だからご主人さまには、いつも愛情をそそいで気づかってほしいニャン』



 最後の締めの言葉に、七瀬は今更ながらに自身の浅はかさを思い知らされた気がした。


 看病なんてしたこともない、されたこともない。況してや愛情など微塵も知らないくせに、生き物を飼おうとしていたのだ。なんて愚かしい、なんて烏滸がましい。


 本を閉じれば、表紙の無垢な目をした子猫が、あの黒猫の最期の姿にオーバーラップする。


 たとえ悲惨な末路を回避できたのだとしても、拾わなくて正解だったのかもしれない。

 人形の如く囚われ、こちらの勝手なままごとに付き合わされながら無為に生き永らえさせられるより、食餌としてでも誰かに必要とされ役立つ方が幸せだったかもしれない。


 もういなくなった猫に、選択肢を求めることはできない。


 けれども、七瀬にはそう思えた。




 体に良くないと思いつつも、貰い受けた睡眠剤を飲み、寝室に戻る間もなく訪れた睡魔に任せてソファで眠りこけていた七瀬は、耳慣れた音楽で目を覚ました。すぐに着信音だと気付いたので、愛読書の隣に置いた携帯を手探りで取る。


 発信者は『ボブ&サム日真杉ひますぎ店』――職場からの電話だ。



「はい、七瀬です」


『あ、ナナちゃん? 休みなのにごめんね。今仕事先からなんだけど……って着歴でわかるか』



 筒見つつみの申し訳なさそうな、それでいて屈託なく明るい声が耳をくすぐる。カーテンで外光を遮っていたので気付かなかったが、時計を見ると既に午後九時過ぎを指していた。


 随分と長い時間、寝ていたものだ。思わず洩らした吐息は、まだ熱かった。



「何かあった? ミスでもしてたかな?」



 昨夜から既に倦怠感があったため、仕事に支障があったのではないかと半ば本気で七瀬が問うと、筒見は受話器の向こうで笑った。



『違う違う。ナナちゃんの友達だって人が来て、伝言頼まれたんだよ。すごく背の高い、黒いスーツ着た男の人。多分、オーナーが強化版の最新老眼鏡アイズでパパラッチした人だと思うんだけど……』



 恐らく、いや間違いなくサラギだろう。昨日から体が怠く頭がぼんやりしていたおかげで、今日は仕事が休みだと言い忘れていたのだ。


 それを思い出した七瀬は、渋々その伝言とやらを尋ねてみた。



「で、その人、何て?」


『自分のことは構わなくていいから、今夜はゆっくり休んで下さいって』



 空気は読むものでなく吸うものと言い張りそうな鈍感なりに、こちらの不調を感じ取っていたようだ。


 バイト先に押しかけられたのは正直言って迷惑だが、携帯電話も持っていない、マンションを知っていても何号室に住んでるかわからないといった程度の間柄では仕方ない。



「わかった。筒見さん、ありがとう」



 仕事中にも関わらずわざわざ連絡をくれたこと以上に、電話で起こしてくれたことが七瀬にはありがたかった。おかげで、例の幻聴や幻覚を聞かず見ずに目を覚ますことができたのだ。



『あたしなんかより、例のお友達さんに感謝してあげて。ナナちゃんのこと、心配してたみたいだから。あ……できれば一応、無事を確認しといた方がいいかも』



 筒見の張りのある鈴の音のような声が、急速に勢いを失う。



 嫌な予感がした。



「どういうこと?」



 七瀬は気怠さも忘れて身を起こした。そしてその胸騒ぎは、次の筒見の言葉で決定的となった。



『まだニュースになってない? ついさっき、この近所で若い男の人が殺されてるのが見付かったらしいんだよ。あたしもお客さんから聞いただけだから詳しくはわかんないんだけど、身元不明の浮浪者って話で……滅多刺しだったって』



 聞くが早いか、七瀬はテレビを点けた。

 チャンネルを合わせた地元ケーブル番組に、速報が流れている。


 筒見が教えてくれた通り、被害者は身元不明の若い男――現場はコンビニのすぐ近くにある廃工場だ。



 筒見によれば、サラギと思しき男は今から一時間半ほど前に店に現れ、それから暫くして辺りがパトカーのサイレンやら野次馬やらで騒がしくなったという。何事かと思っていたら、その時入店してきた常連客に事件のことを教わったとのことだった。



 いてもたってもいられなくなり、七瀬は外へ飛び出した。



 被害者がサラギであろうがなかろうが、自分には関係のないことだ。


 それでも、確認したいと思った。彼の生死を確かめなくてはならないと思った。


 確かめたところで悲しみも喜びも沸かないとわかっている。なのに、足は事件現場に向かって走る。熱に浮かされて、おかしくなっていたのかもしれない。


 サラギが殺されたのだとしても、その時間帯にその場所に彼がいたのが自分のせいだとしても、自分と関わり合いにならなければそんな目に遭わずに済んだのだとしても、彼の命など背負えないし、背負うつもりもさらさらない。


 サラギが子猫の命を己の勝手で決したように、自分も彼の命に責任や感慨を抱く必要はないのだ。



『……、……、……、……』



 湿っぽく澱んだ夜道を駆ける七瀬の耳に、あの声が囁く。



 最近は覚醒している時に聞くことはなかったのに、この高熱のせいだろう――執拗な呼びかけは、また誰かの運命を手折り、それでも生き続ける七瀬のことを、責めているかのようだった。

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