12.悲喜


 七瀬ななせの検査の結果が記された用紙に目を走らせた瞬間、藤咲ふじさきは固まったまま動かなくなってしまった。


 取り立てて具合が悪かった覚えはなくても、主治医に深刻な顔をされれば、誰だって不安になる。


 なので、藤咲のただならぬ様子に圧されつつも、七瀬は遠慮がちに声をかけた。



「先生、今回そんなに悪かった? 怪我もしてないしちゃんと食べてたし、健康には気を遣ったつもりだったんだけど……病気でも見付かった、とか?」


「違うわよ、見てこれ!」



 満面に笑顔を弾けさせ、藤咲は用紙を突き出してその箇所を示してみせた。



 綺麗に切り揃えられた爪が指す体重の欄には、相変わらず痩せ過ぎを警告するお決まりの文句が並んでいる。



「どこかおかしい? 数値も前とそんなに変わらな……」


「何言ってるの、増えてるじゃない! これは久々の快挙よ!」



 確かに、前回と比べて200グラム増加している。けれども、このくらいは誤差の範囲ではないのか。


 そう問う七瀬に、藤咲はそれでもこれまでは減る一方で、ここ数ヶ月は停滞することすらなく、その結果じわじわと体重が落ち続けていたのだと説明した。


 言われて初めて、七瀬は自分の今の体重が一年前よりニキロ軽くなっていることに気付いた。



「そっか、取り敢えずはミイラルート回避だね」



 大して関心もなさそうに七瀬が呟く。藤咲は苦笑しながら頷いた。



「そうね、まだ安心はできないけれど一旦は回避できたわ。もしかして、噂の友人さんのおかげかな?」


「うん、そうかも」



 どうせ筒見つつみかオーナーあたりに聞いているだろうと予想していたので、七瀬は素直に答えた。実際、サラギがあまりにも楽しげに食事をするものだから、触発されてこの頃は食が進んでいたのだ。


 対して、藤咲は否定されなかったことに内心驚き、笑顔の裏で尋ねていいものか逡巡し――やはり止めておくことにした。



 出来るなら、彼女の方から話してもらいたいと思ったので。



 自分のかかりつけになってから、七瀬には交友関係というものが皆無であった。


 学生時代には友人が大勢いたようだったが、彼女はその全てを断絶した。



 『あの事件』のせいでそれまで住んでいた街にもいられなくなり、遠く離れたこの地に逃れ、いや、追いやられたのだから、無理もない。



 かといってずっと一人にしておいても改善しないと判断し、坂上さかがみに相談を重ねて今の職場を紹介した。


 その決断は、思った以上の功を奏した。坂上夫妻のサポートに加え、事情を聞いた筒見が率先して働きかけてくれた結果、二人はプライベートでも共に過ごすほど親しくなったのだ。



 それだけでなく、七瀬は今、自らの意思で他人と交流しようとしている。藤咲には、それが何より嬉しかった。



「七瀬さん、たまには私も雑談に混ぜてくれないかしら。忙しいだろうとか迷惑かもだなんて、気にしなくていいから。私だって、又聞きばかりで寂しいのよ? ちょっとは構ってくれてもいいんじゃない?」



 冗談半分に訴えかけると、七瀬は視線を宙に彷徨わせてから、しかしちゃんと首を縦に動かした。


 今日も一切感情を顔に映してはくれなかったけれども、仕草には随分と気持ちが現れるようになったと思う。



 まだ一度も見たことのない笑顔が、いつか見られるかもしれない。



 そんな淡い期待を胸に、藤咲は診察を終えて立ち去る七瀬の背を、いつも以上に優しい視線で見送った。




 梅雨明けも間近と伝えられたにも関わらず、途切れながらもしぶとく続く小雨の中、深夜の闇に紛れ、黒い影が入り組んだ路地を滑るように進んでいた。


 繁華街を少し外れただけなのに、ネオンもざわめきも朧げで遠く、道はひたすらに暗い。


 機械的に足を運ぶ男の流麗な口元には、あるかなしかの微笑が刻まれている。しかし、切れ上がる眦下に鎮座する瞳は、妖刀の仄かな輝きにも似た、危険な光を宿していた。


 お世辞にも治安が良い場所とは言えないようで、壁には至るところに落書きが施され、あちこちに放置され腐ったゴミが放つ饐えた臭いが鼻をつく。時折人とすれ違っても、皆俯き加減で視線も合わせずに通り過ぎていった。それが、ここでのルールらしい。



 裏通りに深く入り込むにつれて道幅は狭まり景色は荒れ、同調して出会う人間の雰囲気もどんどん悪くなっていく。それでも男は、歩みを緩めることなく突き進んで行った。


 だが、幾度目かの角を過ぎようとしたその時、奥の袋小路にたむろしていたグループの中の一人が男に向け、低く唸るような声を発した。



「…………おい、お前」



 それを聞いたサラギは、漸く足を止めた。



「金を置いて、とっとと失せろ」



 ストレートかつ簡潔に要求すると、声をかけたキャップ帽の青年は緩慢な動きで立ち上がった。身長は並程度だが、Tシャツの生地を押し上げる筋肉は太く逞しい。入墨を施した剥き出しの腕など、サラギのそれとは比べものにならない。


 気配を感じたサラギが肩越しに後ろを窺えば、仲間と思しき二人組の若者が下卑た笑みを浮かべて退路を塞いでいた。



「聞こえねえのか? それともビビって声も出せねえのか?」



 獲物を前に、凶暴な悦びを露わにして青年が尋ねる。サラギはただ小さくくちびるを歪めただけで、要求も質問も綺麗に無視した。



「てめえ! 殺されてえのか!」



 背後で構えていた一人が、怒声を撒き散らしながらサラギに躍りかかる。


 するとサラギは、柳の如くふらりと動いて彼の拳を避け、その腕を優美ともいえる手付きで取った。



 次の瞬間、その場にいた全員が目を瞠った。



 仕立ての良い服を着て連れもなくうろつく、間抜けなカモにしか見えなかった優男――――だがそいつは、殴りかかった男の上腕に噛み付き、そのまま食い千切ったのだ。



 高く長く上がった悲鳴が、デクレッシェンドで弱まり、泣き声へと移り変わる。


 引き攣りしゃくりあげ上げながら蹲る男の前に、つい先程まで己の一部だった肉片を吐き捨てると、サラギは再び袋小路側に向き直り、舌なめずりをして、くちびるを吊り上げた。


 その隙を突いて、後ろにいたもう一人がナイフを取り出し、身を低くして突っ込んだ。


 だが、それもあっさり躱される。


 逆に背後を取られて後頭部を掴まれた青年は、突進した勢いのまま、壁に顔面から叩きつけられた。



 悲鳴に被さって、骨の砕ける嫌な音が響く。



 それでも、サラギは手を止めない。

 何度も何度も、繰り返し叩きつける。



 情けも容赦もなければ微塵の躊躇もない、流れ作業と全く同じ、無慈悲で無機質な動作だった。



 その時になって初めて、彼らは自分達の対峙している相手が、普通でないことに気付いた。



 動かなくなった青年から手を離し、サラギがそっと振り向く。



「……何だ、お前。一体何なんだ? 俺らに何か用でもあるのか、ええ!?」



 最初に声をかけたキャップ帽の男は、震える足で後退りながら、半泣きで問うた。


 袋小路の壁際で、高みの見物とばかりに成り行きを眺めていた残る三人の男達も、この異様な事態に、揃って腰を抜かしている。



「か、金か? 薬か? 何でもやる、だから勘弁してくれ!」


「だ、誰にも言いません! 約束します! 本当です!」



 逃げ場のない彼らにできることといえば、財布やら身に付けていた貴金属やら何かの薬品が入った袋やらを投げ出して、精一杯懇願するのみだった。



 しかし、その間にも、血の吹き出る寸前の薄い傷口に似た笑みが近付いてくる。



「…………あなた達、生物を虐げる行為はお好きですか?」



 最初に声をかけた男の真ん前に立ちはだかると、サラギはやっと口を開いた。


 優しげでありながら、どこか底冷えする声音だった。



「私は嫌いです。だから、悪戯に苦痛を与え楽しむあなた達みたいな方々が、昔から大嫌いなんです」



 愛の告白をやんわりと、しかし徹底的に突き放すような口調で、サラギははっきりと宣告した。


 身に覚えはあれど、いや、あるからこそ反論などできるはずもなく、四人は金縛りに遭ったように凍りつくほかなかった。


 指先に残る血を舐め取りながら、サラギは言葉を続けた。



「邪魔なんですよ、あなた達。ただでさえ目障りなのに、これでは足跡が見えなくなる。このままでは、時間がかかる。その間にも、犠牲が増える。だから見付け次第、根こそぎ排除することにしたんです」



 深淵の奈落を映したかのような、深く澄んだ琥珀色の虹彩が、妖しく煌めく。



 そして透明な樹脂に生きたまま封じられる昆虫の如く、四人はその瞳に射竦められ――――暫しの沈黙は、しかしすぐに、四つの絶叫に塗り替えられた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る