11.謝罪


「…………ナナセさん? 目が覚めましたか?」



 夢現の境で聞くいつもの音声と、全く異なる質の低い声が耳朶を揺らす。


 現実に誰かが自分に話しかけたのだと理解するや、七瀬ななせは勢い良く跳ね起きた。



「痛た……これこれ、起きるならもっとゆっくり起きなさい。また気を失ったらどうするんですか」



 覗き込んでいたサラギが、思い切り頭突きを食らった額を押さえつつ窘める。


 七瀬は助言を無視して寝かされていたソファから素早く立ち上がり、警戒心をむき出しにした固い声で尋ねた。



「ここ何処」



 電気が点いていないのではっきりとはわからないが、ロッカーが並んでいるところから伺うに、どこかの更衣室のような部屋らしい。



「私の仕事先の更衣室兼待機室です。ほら、南瓜紳士の衣装があるでしょう? 住まいにしている公園で休ませようと思ったんですが、雨が降ってきたので、先輩にお願いして開けてもらいました」



 いつかの変装に使ったジャック・オ・ランタンの頭部を見せびらかしながら、サラギが答える。


 このところ早朝からの仕事が多いため、交通費の節約と通勤時間の短縮を目的にこっそり寝泊まりしていた高谷たかたにを無理矢理追い出したのであって、正確にはお願いしたわけではないのだが、どちらにせよ七瀬には関係のないことだった。



 問題は、トラックに撥ねられたはずの男が、目の前でへらへら笑っているということだ。



 七瀬はソファに腰掛けるサラギに掴みかかり、あちこちを触って感触と体温を確認した。


 そこで、やはり夢ではなかったと実感し、また脱力する。



「本当に……生きてる」


「おっと、大丈夫ですか? 私なら心配要りませんよ、体は頑丈なんです」



 糸の切れたマリオネットみたいにへたり込む七瀬の両肩を掴んで支えながら、サラギは優しく微笑んだ。それから傅くように頭を下げ、神妙な口調で言った。



「それよりも、失礼なことを言ってしまいました。本当に申し訳ありません。ナナセさんはまだ未婚でいらっしゃるようですので、妙齢の婚姻相手をお探しなのかと思っておりまして。私では役不足なのは理解していますし、身の程を弁えた発言のつもりだったんですが……あの言い方では、上から目線で小馬鹿にしていると取られてもおかしくありませんよね。どうか、失言をお許しください」


「つまり、『そういった付き合い』って……結婚を視野に入れた付き合いってこと?」


「そうですけれど……あれ? 何か誤解がありましたか? え? あの、もしかして……この私を婚姻の対象にしても良い、とお考えだったとか」


「お考えだったわけあるか。気持ち悪いこと言わないでくれる」



 口汚く罵った七瀬だったが、彼に悪意はなかったと知ると途端にいたたまれなくなった。


 こちらの勘違いで痛い目に遭わせた上、故意ではなかったとはいえ、死んでもおかしくないような状況に陥れたのだ。



「あの……蹴ったりしてごめん。サラギくんが謝ることないよ、私のせいで死にかけたのに。無事で良かった。本当にごめんね」



 謝って済む問題ではないと理解しつつも、七瀬は小さく詫びの言葉を告げ、ついでにサラギの頭を撫でた。


 サラギはぽかんとしていたが、彼女の手が離れるとその感触を確かめるように自ら撫でられた箇所に恐る恐る触れた。が、すぐに俯いて目を逸らしてしまった。



「ええと、そうそう、ナナセさんは格闘術に心得があるんですね。とても素晴らしい蹴りでしたよ。いやはや、全く素晴らしい。素晴らしいったらもう、本当に感動の素晴らしさです。ええ」



 訳のわからない賛美の嵐を受けた七瀬は、怪訝そうに首を傾げながら、窓から差し込む街灯の光を頼りに室内を見渡した。



「昔、ちょっと習ってた時期があったから……って嫌味か。その件に関しては、私が一方的に悪かった。反省してる。今は平気かもしれないけど、後で痛むところが出てきたら病院に行って。治療費は責任持って、全額出すから」



 暗さに慣れてくると、部屋の片隅に見慣れたコンビニ袋が手付かずのまま置いてあるのが目に映った。


 七瀬がそれに気付くと同時に、サラギの腹から太く長い轟音が鳴り響く。空腹を我慢して、自分を看病していたらしい。


 七瀬はサラギの手をすり抜け、食料が詰まった袋を取ってきて、近くにあったテーブルに手早く中身を並べた。



「とにかく、まずはご飯食べてよ。お腹空いてるんでしょ?」



 割箸を差し出して促すと、彼のくちびるに、花蜜を含んだような甘い微笑が広がった。



「ナナセさんは、やっぱり優しいですね」



 そう言ってサラギは箸を受け取り、いただきますと丁寧に頭を下げてから、食事を始めた。



 同じことを言われたのは、これで二度目になる。


 だが否定するのも面倒で、七瀬は一緒に買ってきたミネラルウォーターを飲みながら、美しい箸運びとは真逆の怒涛の食べっぷりをぼんやり眺めていた。



 実は先程、至近距離で顔を見た時に、彼の瞳が自分と同じく、東洋人離れした色をしていることに気付いたのだが――それも突っ込まないでおいた。



 彼の方も聞かないでいてくれるのだし、脳天気に見えるこの男にだって言いたくないことはあるだろう。これもまた、自分と同じく。

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