10.事故
「ナナセさん、お疲れ様です……って、ちょっと? 待ってください、ナナセさん。ほら、私ですよ? もしかして見えていないんですか? だったら、そんなに早く歩くと危ないです。さあ、手を貸しますから、ゆっくり行きましょう?」
漸く現れた待ち人が、労いの言葉も無視して早足に目の前を通過していくと、サラギはまた彼なりのよくわからない解釈から来る見当違いの親切を述べながら、その背に追い縋った。
「嫌でも見えてるよ。これからは五メートル以上離れて歩いてくれる? それから、待ち伏せするならもっと遠くにして。お前と仲良いなんて誤解されたくない」
振り向きもせず、
「仲良しというには、まだ出会って間もないですからねえ。でも、これから仲良くなれると思いますよ? 私はもっと、ナナセさんと仲良くなりたいです」
ストレートに告げたにも関わらず、サラギは相変わらずのポジティブ思考全開だ。おまけに七瀬の言葉を都合良く捻じ曲げ、更にははにかみ混じりに、七瀬にとっては迷惑極まりない本音まで吐露してきた。
前向きなのは結構だが、ここまでくると鬱陶しい。
こういった思考回路の持ち主が、ストーカーになるのだろうか。厄介な奴に関わってしまったと悔やめど、後悔先に立たず。やはり選択を誤ったようだ。
そんな心中を映した冷ややかな声で、七瀬は答えた。
「私はそうは思わないけどね。お前なんかと仲良くなる気もないし、なりたくもない」
「何故です? ナナセさんが他に仲良くしたい良い男とやらがいても、私は一向に気にしませんよ? 私はナナセさんに『そういったお付き合い』は望みませんから」
それを聞くや、七瀬は振り向き様、鋭い中段蹴りをサラギの脇腹に見舞った。
体格差はあれど、虚を突いた内臓への一撃は
それだけなら、自業自得で済む。
ところが転倒した先は車道で、しかも運悪く、トラックが猛スピードですぐそこまで迫ってきていた。
身を起こし立ち上がりかけたサラギは、危機的状況の最前線に置かれているにも関わらず、真っ直ぐに七瀬を見つめ、申し訳なさげに眉を下げつつ――――それでもやはり、薄く微笑んでいた。
凄まじい衝突音と共に、その笑みごとサラギの体が吹っ飛ぶのを、七瀬は瞬きも忘れて見つめていた。
続く耳を
重力に逆らって舞い上がり、歩道脇の植え込みに叩きつけられる身体。
慌ててトラックの運転席から降りてきた、作業着姿の若い男性の蒼白した顔。
それらをただ呆然と見送りながら、七瀬は身じろぎ一つできずに、ただ立ち尽くしていた。
運転手の青年が、撥ねた相手の容態を確認しようと植え込みに駆け寄る。
彼の焦り狂う悲鳴じみた声は、やや離れた場所にいた七瀬の耳にも届いた。
「だ、大丈夫ですか!? き、きゅう、救急車呼び、呼ばなきゃ…呼べぼ……」
「…………ああ、びっくりした」
「え? ええ!? あの、あああんた……へい、へへ、平気なのか!? け、けけっけ、怪我は!?」
「ご心配なく。当たりどころと落ちた場所が良かったようで、この通り、無事ですよ」
必死な問いかけとは正反対に、冷静に受け答えしているのは、紛れもなく、つい先程まで七瀬が会話していた相手だ。
その証拠に、そいつは植え込みから自力で立ち上がり、平然とスーツに付いた葉っぱを払い落としている。
そして、固まっている七瀬を見付けると――――事故直前と全く同じ表情をしてみせた。
それを目にした瞬間、七瀬は膝から力が抜けるのを感じ、地面に吸い込まれるようにして崩れ落ちた。
『……、……、……、……』
また、あの人が、あの言葉を告げる。叫んでいる。喚き続けている。
自分が生涯苦悩することを望んでいるのか。それすら許さず、記憶の片隅にも置くなと云いたいのか。
思えば、あの人が求めるものなど、何一つ知らなかった。最後の最期まで、あの人のことは欠片もわからなかった。
『……、……、……、……』
殺したかった?
死んでほしかった?
この存在を抹消できたなら、少しは満たされた生き方ができた?
ちゃんと聞いて、答えを貰っておけば、これほどまでに囚われずに済んだのかもしれないのに。
『……、……、……、……』
でも、ごめんなさい。
あなたの声は、忘れられそうにない。あなたに縛られあなたに縋り、生きる他ない。
今こうして見ているあなたが、勝手に作り上げた虚像だと理解していても、あなたという存在にいつまでも触れ続けていたい。
『……、……、……、……』
だから、幻でもいい。
傍にいて――――お母さん。
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