9.誤解
帰宅すると、最初にまずテレビを点ける。
広すぎるこの部屋で一人で暮らすようになってから、それが
壁に埋め込まれた巨大な画面には、午後ニ時から始まる報道番組の名物キャスターが映し出されている。七瀬は特に気にも留めず、リビングダイニングと一続きになったキッチンでコーヒーメーカーを立ち上げた。
しかし、通り魔事件のニュースが耳に入ると、思わずそちらに視線が向いた。
例の小動物虐殺事件は、面白がった模倣犯が続出したせいで各地に飛び火し、全国的に大問題となっているという。けれども、その発端ともいえるこの近辺では一時期の勢いは衰え、今はすっかり落ち着いていた。
大事になり過ぎたために、逮捕を恐れた犯人が捜索の手を逃れ他所へ逃げたのだとか、単に飽きて止めたのだとか、果ては殺された動物達の呪いで狂い死にしたのだとか様々な推測が飛び交わされる中――それでも、七瀬にはどれも的外れなような気がしてならなかった。
サラギの言葉が引っ掛かっていたからだ。
影を潜めたとはいえ、結局犯人はまだ捕まっていない。
通り魔事件の被害者は目の見えない老年の男性で、夜歩いていたところを襲われ、全治二ヶ月の重症を負ったらしい。しかも現場は、ここからそう遠くなかった。
もしあの男の言う通りになったのだとしたら、と想像すると何とも言えない気持ちになり、七瀬はチャンネルを変えた。
淹れたばかりのコーヒーが満ちたマグカップを片手に、優に四十畳はあるリビングに戻ると、彼女はリアルレザーのソファセットの真ん中に腰を下ろした。
フロアライトを優しく跳ね返す柔らかな黒の質感は、グレーウッドに統一された室内によく似合う。といっても、七瀬のセンスではない。与えられたものを使っているだけだ。
無駄に豪奢な家具家電を始め、二十歳過ぎの小娘が一人で住むにはおよそ相応しくない、高級マンションの最上階に位置する唯一の部屋。素晴らしく恵まれた環境に見えるが、しかしここは『不要品を投棄するゴミ箱』なのだと、その『不要品』である七瀬はしっかり自覚していた。
寒々とした気分を払拭するように、七瀬は病院帰りに買ってきた書籍を開封した。
タイトルは『かわいいニャンコの育て方』。
表紙を飾る子猫があの黒猫に似ていて、衝動買いしてしまったのだ。内容はタイトル通り猫の育成指南で、七瀬には不要のものだったが、写真が多く、眺めているだけで癒やされる。
じゃれ合う子猫の兄弟や高貴な風貌のショーキャット、のびのびとした表情と格好で寛ぐ家猫達の姿を目で楽しみながら、今度ペットショップでも覗いてみようか等と考えている内に、七瀬の頭からは事件のこともサラギのことも押し出されていった。
『……』
『…………』
『………………』
暗闇の中、微かな声が聞こえる。
声は光も届かぬ深海の奥に落ちるかのように、ひどく遠い。
けれどもそれが何を言わんとしているか、七瀬には嫌というほど理解できた。
『……、……』
耳を塞いではならない。目を背けてはならない。救いも赦しも求めてはならない。
己がすべきはただ一つ、ひたすらに受け入れるのみだ。
『……、……、……、……』
夢現の意識の狭間に、その人はいつも腐れ爛れた姿で脳裏に現れ、呪文の如く執拗に言葉を放ち続ける。
それは、一個の真実。
最後の最期、今際の際に憐れな魂が遺した、この上なく残酷な真実と遺言。
そしてもう一つは、名前。
その時まで決して呼ばれることなく、識別するだけの記号でしかなかった単語は、先の辛辣な告知を打ち消す程に、甘やかに耳から脳へと響く。
夢とは思えぬほど明瞭な五感は、しかし刻まれた記憶をただ再生しているに過ぎない。夢を夢と理解していながら、それでも七瀬は過去に倣い、全身でそれを味わった。
これが、これだけが、自分を自分と体感できる、たった一つの贖罪の儀式なのだから。
「ナナちゃん、最近楽しそうだね。やっぱ彼氏できたせい?」
バイトを終え、店内で適当に選んだ食料品を放り込んだ買い物カゴをレジに置いた七瀬に、
「…………は?」
「あれ、違った? だってナナちゃん、少食なのにこの頃沢山買ってくし。それに昨日、外で待ってた男の人と一緒に帰るのを見たってオーナーが言ってたから、あたしてっきり……」
七瀬は脱力感のあまり、肩を落とした。
「浮かれてるのは、帰ったら最近はまってる本読むのを楽しみにしてるから。彼氏なんかできてない。オーナーが見たのは、知り合い。そいつが食うに困るくらい貧乏だっていうから仕方なく奢ってやってるだけ。他に質問は?」
無表情で淡々と説明する七瀬に気圧され、半ば後退りつつも筒見は追撃した。
「でも……貧乏っていうけど、身なりの良さそうなイケメンだったって聞いたよ? それにナナちゃんがマメに奢るくらいだから、仲良いんでしょ? 良かったら紹介してほしいかな〜なんて。あ、下心はないよ? ただ友達として、どんな人か興味あるだけで」
「見た目どうこう以前に、とんでもなく気持ち悪い奴だから関わらない方がいいよ。また
心底うんざりといった具合に溜息を吐き出し、七瀬は愛想笑いで誤魔化す筒見から袋詰めされた荷物を受け取った。
裏で事務処理をしているオーナーにも説明すべきかと思ったけれども、外を見遣れば、道路の向かい側にある電柱から細長い黒い影が既に覗いている。
なのでパパラッチならぬパグラッチへの抗議は次の機会にすることにし、七瀬は店を出た。
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