7.悪食


 平日深夜のファミレスは人も疎らで、巨大な南瓜頭を片手に紫のマントを纏った男を伴っていても、それほど注目は集まらなかった。


 といってもサラダ全種、定食全種、軽食類全種、デザート全種というとんでもないオーダーをしたせいで、店員達からは悪い意味で睨まれはしたけれども。


 いくらこちらから奢ると言ったにしても、ここまで大量に金を使わされるとは思わなかったが、七瀬ななせは男がメニューを読み上げ次々と注文していく様をただ静かに眺めるだけで、不満も制止も口にしなかった。文句を言う気力も失せたという方が正しいか。


 ドリンクバーのコーヒーを取りに行って彼女が戻ると、作り置きと思われる数種類のサラダが既にテーブルを占拠していた。



 そしてその中の一つを、男は早くも完食していた、のだが――――七瀬はそこで初めて、彼に話しかけた。



「待って、それ食べ物じゃない。お前、馬鹿なの? 何してんだよ」



 受皿に乗っていたガラスボウルを齧っていた男は、七瀬に叱責されると慌てて口を離した。



「す、すみません……これも器だったんですね。お皿に器を乗せるなんて予想外で。あの、世間知らず過ぎて呆れてます?」



 俯き気味に上目遣いで恐る恐るこちらを見る姿は可愛げがなくもなかったが、そんなものどうでもいい。


 三分の一くらいになったガラスボウルにはしっかりと歯型が付いており、そこから全体に亀裂が走っていた。



 本気で食べていたのだ。



 思うが早いか、七瀬はそれを床に叩き落とした。勢いが強過ぎたせいで、凄まじい破裂音が響く。


 慌てて飛んで来た店員に対して、七瀬は席を立って頭を下げた。



「申し訳ありません。手が滑りました」



 いえいえ、お気になさらず等と言いながらも顔を引き攣らせた店員が清掃を済ませてカウンターに戻ると、男と七瀬は黙ったまま、暫く互いに見つめ合った。



「……口の中は、平気なの?」



 取り敢えず七瀬は、一番の疑問を投げかけてみた。


 男はきょとんとして、それから不思議そうな表情のまま縦に首を振った。



「ガラス、食べられるの?」



 次の質問に返ってきた反応も同じ。



「プラスチックも鉄も石も? 例えば熱して溶けた銅だとか世界一固いなんて言われてるダイヤモンドだとか、そういうのも?」


「う〜ん、鉄製品そのものはそんなに好きではないので温めたところで微妙ですね。同じ温かい食べ物でしたら、煮込んだ大根の方が美味しいです。石は物にもよりますが、ダイヤモンドは絶品ですよ」



 予想の遥か斜め上を越えた答えに、七瀬は頭の中が歪むような気がした。だがそうしている間にも、ご馳走を前にお預けを食らっている男の腹がけたたましく鳴り響く。


 それを聞くと、何だか考えるのも馬鹿らしくなってきた。



「もう話は済んだ。食事再開していいよ」


「ありがとうございます。またマナー違反をしてしまいましたら、遠慮なくお叱りください」



 マナー以前の問題だと思うが、それでも七瀬は仕方なく男の挙動を注視した。いや、させられたというべきか。


 肉をステーキナイフで鉄板ごと切断しようと奮闘すれば違うと諭し、定食やグラタン類やデザート系にはどれが器なのかを教え、またカトラリーは食べてはならないと嗜め――結局、コーヒー一杯飲む間もないほど忙しく面倒な時間を強いられる羽目となった。



「ご馳走様でした。では改めまして私、サラギセラと申します」



 大量の料理をぺろりと平らげ、食後のお茶を一口啜ったところで、男は初めて名前を明かした。


 姓がサラギで名がセラ、漢字は面倒だと割愛された。


 奇妙な名前ではあるが、偽名であろうと本名であろうと七瀬には構わなかった。ただ、似合いの変な名だと思っただけだ。



 サラギセラの話によれば、彼は人里離れた山奥で暮らしていたという。


 しかし誤って長距離トラックに乗り込み、そのまま流れ流されてこの辺りにやって来たらしい。


 ずっと山の外に出たことがなかったので、元いた住所はおろか、その地名すらも知らないのだそうだ。



「でも、戻ろうとも戻りたいとも思わないんです。いつかも言いましたように、今の生活が気に入ってますので」


「お前はそれでいいかもしれないけど、家の人は大丈夫なの? 連絡くらいは入れといた方がいいんじゃない?」



 全く関心はなかったが、七瀬は一応無難な返しをしておいた。途端に、サラギの顔が曇る。



「わかってはいるんですけれどね……今頃血眼になって探しているはずです。私がいなくなるというのは一族の一大事でしょうから」



 やはり、この男はそれなりの出処の者らしい。


 おかしな悪食も含めて色々と突っ込むべきところはあるが、いちいち問うほど興味も沸かなかったので、七瀬は彼を『消化能力がやたら高い、現在家出中の箱入り息子』という適当極まりない結論を付け、納得することにした。



「あの……よろしければ、私にも娘さんのお名前を教えていただけますか? いえ、変な意味はなくて……あ、決して呪術等に使うわけではありませんからね? そこは本当に安心して大丈夫ですからね?」



 意味不明な念を押しつつ、今度はサラギの方が名を尋ねる。


 七瀬は少し迷ったが、職場ももう割れているのだから隠したところで無駄だろうと観念した。



「……………七瀬」



 投げやりな呟きを聞くと、サラギは途端に歓喜の笑みを顔いっぱいに咲かせた。



「ナナセさんとおっしゃるんですか。素敵なお名前ですね。ナナセさんかぁ、ナナセさんねぇ、ナナセさん、ナナセさん……」



 名前を連呼されながらニヤニヤされるのはとてつもなく気持ち悪かったが、それを堪えて七瀬は尋ねてみた。



「苗字だけで、良かったの? 名前、とか……他にも、年齢だとか何してるかとか……そういうの、普通はもっと、突っ込んで聞いてくるものじゃない?」



 仄白い小さなくちびるから零れた声に、隠そうとしても隠しきれないどろりと重い陰が漏れ出る。


 だがサラギはそんなこと気にも留めないどころか、気付いてもいないらしく、平然と答えた。



「ナナセさんがナナセさんというなら、ナナセさんでしょう。何の問題があるんです? 他に聞きたいことといえば……う〜ん、ああ、そうだ。私に急に冷たくなったのは、やはり他に良い男とやらができたからですか?」



 七瀬は返事の代わりに、愉しげに笑う忌々しい面にコップの水をノーモーションでぶっかけた。


 サラギが何でだとか酷いだとか不平を垂れるが、聞こえない振りでやり過ごす。全くもって、おかしな奴だ。



 それでも七瀬は、初めてサラギセラという人物に好感を抱いた。


 元々の印象が甚だしく悪かった分、余計なことを聞かずにいてくれるだけで、評価が跳ね上がっただけともいえる。しかしそれでも、色々と問題を抱える彼女の心理領域に於いて、許容可能な立ち位置と取るべき距離を最初から保てる者はなかなかいない。


 七瀬に、精神疾患があることすら知らないなら尚更だ。


 その点で、彼は多少性格に難はあれど、平均点以上といえた。



 そんなわけで、カードで支払いを済ませて店の外に出ると、七瀬はサラギに向き直り、改めて告げた。



「お前は変な奴で信用ならないけど、顔見知りくらいにはしといてあげる。見かけたらご飯くらいは奢るから、動物いじめちゃ駄目だよ、サラギくん」


「ですから私ではありませんって。それに、あなたの……」



 と、何かを言いかけて、サラギは突然無表情になった。


 これまで薄笑いがデフォルトだっただけに、初めて見る彼の真顔は七瀬の目にはひどく奇異に映った。



「何? 電池切れた? ネジ飛んだ? 動力停止した?」


「いえ……サラギくん、なんて呼ばれるのは初めてなので、ちょっと嬉し恥ずかしで戸惑ってしまって。それで、もう、あなたのことを忘れなくていいんですよね? 私のことも、覚えていてくださるんですよね?」



 渋々といった感じで、七瀬が頷く。それを確認すると、サラギの表情はすぐに和らいだ。



「ああ、良かった。ではこれで私達はお友達ですね。女の子のお友達は、この地に来て初めてです。もう夜も遅いですし、お家へお送りしましょう」


「勝手に友達認定しないでくれる? 通りすがりに毛が生えた程度の顔見知りだから。タクシー呼ぶし、送らなくていい」


「タクシーさんというのは、ナナセさんのお友達ですか? 今から呼び出すのも申し訳ないですし、ここは新しい友人の私にお任せください。大丈夫、敵が現れたら南瓜紳士に変身しますから無敵ですよ!」



 そう言ってサラギは再びジャック・オ・ランタンの被り物を装着し、奇妙なポーズを次々と決めて、何だかよく分からないアピールをしてみせた。もう何を言っても無駄そうだと悟り、七瀬は諦めて送らせてやることにした。



 歩いている途中も絶え間なく垂れ流される戯言には大層辟易させられたが、七瀬の自宅である近隣でも有名な高級マンションに到着しても、サラギは要塞じみた巨大な建物の外観や至る所に設置された監視カメラや全面ガラス張りの出入口に鎮座するオートロックなどを見回しては物珍しそうにしているだけで、送り狼ならぬ送り南瓜になることはなかった。



 ロックを解除して中に入る彼女を扉の向こうからいつまでも手を振り見送る姿は、自ら紳士と名乗るだけあって、頭部は南瓜でも凛とした佇まいが感じられた。

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