5.疑惑


 普段と変わらぬ穏やかな笑みを口元に宿しながら、藤咲ふじさきはその裏でどのタイミングで切り出そうかと悩んでいた。


 それとなく話題の方向を向けてみてはいるのだが、目の前に座る患者の標準装備ともいえる鉄仮面は微塵も揺らがない。気付いていないのか、わざとはぐらかしているのか、それすら読めなかった。


 こういった時は、下手に突かない方が良いとはわかっている。しかし、私情が混じっていると理解していても、藤咲は心配で確かめずにはいられなかった。



七瀬ななせさん、あのね……私、この間、愛莉あいりちゃんから連絡を貰ったの」



 思い切って吐き出した言葉に対する反応はやはり薄く、七瀬は不思議そうに首を傾げるだけだった。



筒見つつみさんが? 昨日も普通に仕事してたけど、何かあった?」



 筒見愛莉は以前、色々あって藤咲が担当していた元患者だ。なので、バイト上だけでなく、心の病を克服した者としても七瀬の先輩に当たる。


 二人が働くコンビニエンスストアのパグ似のオーナーは、実は昔、藤咲を指導した優秀な精神科医だったそうだ。そして医師を引退した現在も、起業した自分の店を患者達の社会復帰の場として開放し、支援を続けている。


 とはいえ、オーナーが自ら面接をして『それなりに意欲があり、最低限のルールは守れる』『お客様に迷惑をかけずに働くことができる』『働くことで病の改善が期待される』と判断を下した者に限るという。


 七瀬も最初は、何故自分が面接に通ったか不思議で仕方なかったが、勤続一年も過ぎると確かに前と比べて『人間らしくなった』と実感できた。



 その要因の一つが、筒見という同世代の少女と仲良くなったことなのだが。



「勘違いしないで、愛莉ちゃんは元気よ。何かあれば私より先に坂上さかがみ先生……いえ、坂上オーナーが気付いて対処なさると思うし、愛莉ちゃんだってまずそちらに相談するでしょう」



 七瀬から見れば犬顔の元気なオッサンでしかないオーナーだが、藤咲にとってはいまだに強い信頼と深い尊敬を置く人物なのだ。


 ますます意味がわからないといった風に眉根を寄せる七瀬に、藤咲は一つ息を飲んでから尋ねた。



「七瀬さん、正直に答えてね。変な人に付き纏われてるんじゃないの? 躊躇う気持ちもわかるけど、もしそうなら早めに警察に相談した方がいい。愛莉ちゃんから聞いた話だと、相手は一筋縄ではいかなさそうなタイプだというし、それにプロレスラーみたいに大きい人なんでしょう? 何かあったら……ううん、何か起こる前に対処しなくちゃ」



 七瀬は口をぽかんと空け、藤咲が悲壮な面持ちで諭す様を眺めていた。


 どうやら、色々と勘違いした筒見から勘違いの情報を流され、藤咲にも勘違いが伝染してしまったらしい。



「ああ、それなら大丈夫。付き纏われてるわけではないし、変な人だけど変なことはされてないから……」

「バカね! されてからじゃ遅いのよ!」



 藤咲が声を荒げる。その剣幕に圧され、七瀬は軽く仰け反った。



「ごめんなさい、急に大きな声出して。驚かせたわね。でもこんな時勢でしょう? 私みたいなオバサンならまだしも、若い女の子は少し過剰なくらい危機意識を持った方が良いと思うの」



 すぐに我に返った藤咲は、一瞬とはいえ冷静さを欠いた己を恥じつつ、説得を続けた。


 七瀬はまだ年若い。常に無表情で、何を考えているか分からないせいでひどく取っ付きにくいが、顔立ちそのものは整っている。淡々とした口調や態度も独特の魅力と捉え、恋慕する者がいてもおかしくないだろう。



 ――――彼女が重大な疾患を抱えていることなど、知らないままに。



 藤咲の深い憂慮は主治医の域を越えていたが、だからこそ七瀬は素直に頷いて『次に見かけたら通報する』と約束した。



「それがいいわ。愛莉ちゃんから連絡貰ってからは気が気じゃなかったの。その人が何を目的に七瀬さんに近付いてきたのかは分からないけれど、ストーカー行為に発展しないとも限らないし……それに加えて、今は怖い事件が流行ってるから、色々想像しちゃってね」



 やっと肩の荷が下りたといった具合に、藤咲が安堵の笑みを零す。



 しかし最後の言葉は、七瀬の耳にやけに強く響いた。



 頭の中に、首だけとなった黒猫の姿が蘇る。



 この時、初めて七瀬は、例の男が近頃辺りを騒がせている小動物惨殺事件の犯人なのかもしれない――と、根拠もなく希薄ではあったけれども、小さな棘めいた疑念を抱いた。




「は? 私じゃありませんよ。何故私を疑うんです? 他にも怪しい奴なんて沢山いるでしょう」



 タオルの隙間から、さも心外だと眦尻を上げて睨んでみせると、男は再び濡れた髪をがしがしと乱暴に拭き始めた。


 一瞬見せた非難の眼差しは、これまでの彼のおっとりしたイメージを覆すほど鋭く冷たいものだった。


 彼氏ペンギンとして連日相棒を務めている金髪の青年は内心怯みかけたものの、先輩バイトとしての威厳を維持しようと、何とか平静を装って答えた。



「お前が一番怪しいからに決まってんだろうが。金はねえ、家もねえ、身分証もねえ、そのくせやたらいい服着てるとくりゃ、真っ先に疑われんのも当然じゃねえか?」


「おまけに新人ですしねえ……高谷たかたにさんの信用がないのも仕方ありませんな」



 他人事のように高谷なる先輩バイトに同意しながら、男は手洗いして窓際に干してあった一張羅のスーツ一式を手早く身に纏った。更にその上から更衣室の片隅に放置されていたハロウィン用のジャック・オ・ランタンの南瓜ヘッドを被り、マントまで羽織る。



「ではお疲れ様でした。また明日もよろしくお願いいたします」


「おいこら待て! それは会社の備品だ、勝手に着て帰るな! つうか話はまだ終わってねえぞ!」



 高谷が出ていこうとする男に掴みかかる。


 だが伸ばした手は空を切り、咄嗟に繰り出した逆の腕もあっさりと払われてしまった。


 高谷は更に何かを怒鳴ろうとしたがそれも叶わず、気付けば傷んだプリンのような色の頭を片手で鷲掴まれていた。



「私はあなたのお財布なんて存じませんよ。お金になど興味ありませんから。ただ必要なだけあればいいんです。でもねえ」



 空いた方の手で高谷の胸ポケットから紙幣を取り出すと、男は自分よりやや低い位置にある相手の顔に、鮮やかなオレンジカラーで彩色された被り物の面をぐっと寄せた。



「バイトリーダーだからといって、預かった皆様の給金を誤魔化して少しずつこっそり抜き取る行為は感心しませんな。誰もあなたに支払う義務はありませんよ? 無論、私もです。このお金は恩返しの資金であって、あなたが楽しく遊ぶために稼いだのではありませんからねえ」



 やけに優しい声色とは裏腹に、三角にくり抜かれた目の穴から注がれる眼差しには、絶対零度にも似た凄絶な威圧感があった。


 射竦められた高谷の全身から、一気に血の気が引く。


 だが紙のように白くなった無精髭面は、すぐに苦悶の表情に歪んだ。掴まれた頭部に、一層の力が加えられたのだ。


 苦痛のあまり声も出せず、溢れた涙を流れるに任せて必死になって頷くと、男は満足したのか、漸く手を離した。



「お金はちゃんと皆にお返しなさい。また悪いことをしたら、今度は皮を剥いでバラバラにして鍋にしますよ? その時はこのお仕事を紹介して下さった方達に振る舞いましょうか。そうすれば、少しは恩返しになるでしょうしねえ……では失礼」



 さらりと恐ろしい台詞を言い残して、男は千円札を一枚だけ懐に収めてから更衣室を出て行った。



 残された高谷は、突然の貰い事故に呆然とする被害者の如く、皆から盜み取った日払い金の前でいつまでもへたり込んでいた。

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