4.人鳥


 漫然と続いていた長雨も徐々に引け、日中の空に晴れ間が多く広がるようになってきた。


 だがしかし、人々の関心はこの鬱陶しい梅雨がいつ明けるか以上に、最近頻発している物騒な事件に注目が高まっていた。



「やあねえ、犯人まだ捕まらないんでしょ? やっぱりこういうのってストレスが原因なのかしら?」


「雀やカラスならまだねぇ……原西さんのところの犬もやられたらしいわよ?」


「え、あの豆柴ちゃんが? 奥さん、子供みたいに可愛がってたのに」


「永本さんの猫ちゃんも帰って来ないそうよ。ただ遊んでるだけならいいけど、心配よね~」



 井戸端会議ならぬカフェ談議に熱中する主婦達も、マスコミでも取り上げられた事件を話題の中心に盛り上がっている。


 背後の席で無遠慮な大声で話し続ける中年女性グループがやっと帰ると、筒見つつみはチョコレートパフェをロングスプーンで掬う手を止め、忌々しげに溜息を吐いた。



「煩いババア達だったね。あれで平常運転だってんなら、マジ切れした時どうなるんだろ? 旦那さん、耳栓必須だよね。下手したら爆音で吹き飛ばされて、半径一キロ圏内はペンペン草も生えやしねえぜ状態かな?」


「逆に深く静かにキレるのかもよ。気で圧する的な。妻Aは暗黒の瘴気を発した、旦那Aは逃げ出した、しかし逃げられない、そして王様登場、おお旦那よ、どうして死んでしまったのだ……まあ、どっちにしても旦那さんに勝ち目はないね」



 にこりともせずRPG風に妄想夫婦喧嘩を締め括り、七瀬ななせはコーヒーを啜った。筒見が盛大に吹き出す。


 だが、無様に馬鹿笑いしては先程の奥様方のことを言えないと必死に堪えた。



「ナナちゃん、真顔で変なこと言うのやめて……腹筋死ぬ」



 テーブルに顔を伏せて震える筒見の柔らかそうな巻き髪を見下ろしながら、七瀬はまたコーヒーを一口飲み込んだ。表情には乏しいけれども、感情がないわけではない。友人相手に冗談を返す程度の社交性くらいは、持ち合わせているのだ。


 激しく悶絶すること数分。


 漸く立ち直った筒見は、大きく深呼吸し息を整えてから七瀬を真正面に見据え、これまでとはうってかわって真面目な声で言った。



「ナナちゃん、こないだは猫のことしつこく聞いて、本当にごめん。あたし、考えなしだった。あのオバサン達の言うことなんて気にしちゃ駄目だよ。ナナちゃんの猫はきっと大丈夫! 犯人だってすぐに捕まるよ!」



 筒見が今日七瀬を遊びに誘ったのは、これを告げるためだった。


 野良猫を可愛がっているとは聞いたが、どんな猫か尋ねてもはぐらかされるばかり。それでも粘りに粘って聞き続けていたら、返ってきたのは『いなくなった』の一言。この頃マスコミを賑わせている小動物惨殺事件がすぐに頭に浮かび、筒見は執拗に問い質したことをひどく後悔した。


 また、七瀬の方も『いなくなった』などと適当な言い方をしたせいで、筒見にあらぬ誤解をさせたことに今初めて気付いた。ちゃんと話すべきだったと悔やんだが、もう遅かったようだ。


 ふんわり下ろしたロングヘアも濃い目に施されたメイクも、バイトの時とは全く雰囲気が違ったが、垂れ目がちな大きな瞳には仕事先で見せるものと同じ、いやそれ以上に真摯な光が満ちている。


 そんな眼差しで、両手まで握られ励まされるという不意討ちを食らった七瀬は、気圧されて『いなくなったというのは死んだという意味です』と今更訂正できず、



「あ、ありがとう、心の友よ……」



 と、どうしようもない返答をしてしまった。


 途端に、筒見の表情が花開いたように明るくなる。


  見た目は派手でいい加減そうに見えるけれども、筒見つつみ愛莉あいりという娘は生真面目で繊細で思いやり深い。だからこそ、人付き合いの苦手な七瀬も仕事上だけでなく、こうして休みの日は一緒に出かけたり、用事もないのに無駄に長電話したりと、気兼ねなく付き合える仲にまで打ち解けられたのだ。


 溶けかけたパフェを慌ててかき込む友の姿を眺めながら、七瀬は申し訳なさを噛み締め、こっそり肩を落とした。




 カフェを出ると、薄曇りに濁った不穏な空模様にも関わらず、人気のショップが軒を連ねる通りは土曜日らしく賑やかだった。


 流れる人波に任せ、筒見は灰色に燻る空を仰ぎ、七瀬はハイネックパーカーに顔を埋めるようにして視線を下に落とす。互いに思い思いのスタイルでのんびり歩道を歩きつつ、ウィンドウショッピングがてら、これからの予定について話していた――のだが。



「お~い、見知らぬ娘さ~ん!」



 人混みの隙間を縫って、おかしな呼び声が響く。とはいえ、人が多いせいで筒見を始め、他の者は気にも留めていない。


 しかし、その声に聞き覚えのある七瀬だけは別だった。


 まさかとは思ったが、周囲の誰より大きいのと蛍光ピンクという目に痛いカラーのせいでやたらと目立つ不細工なペンギンの着ぐるみは、明らかに自分の方を見て手を振っている。



 そうくるか、と脱力すると同時に、七瀬は久しぶりに頬の筋肉が引き攣るのを感じた。



 七瀬が自分を認識したことに気付いたのだろう。不細工ペンギンは南極の海に漂う流氷を避けるかの如く、巨体に似つかわしくない素早さで、行き交う人の間をするする泳ぐようにして近付いてきた。



「忘れてしまいましたけれど、お久しぶりです。全く記憶にありませんが、お元気そうで何よりですな。おや、お友達ですか? せっかくですのでこれをどうぞ」



 あっという間に二人の元に辿り着いたそいつは、間近で見ると更に不細工だった。


 無駄に長く濃い睫毛に縁取られた目は左右あちこち違う方向を向いているし、安っぽいスチロールにボアを貼り付けただけの全身一体型の着ぐるみは、中の人物の丈が規格外なせいで、ピンクのタイツに包まれた膝上から下が露出している。全長は優に二メートル超えているが、頭上に不格好によれたリボンが付いていることから、一応、性別は雌らしいと窺えた。


 勧められるがままにビアガーデンの広告の入ったティッシュを受け取ると、筒見はこそこそと七瀬に耳打ちした。



「ねえ、このキモカワペンギン、言ってること支離滅裂で意味不明だけど、ナナちゃんの知り合いなの?」


「全然全く少しもちっとも知らない。真っ赤な他人……じゃないか、他ペンギンだよ。気持ち悪いからスルーしとこう」



 あくまで他人のフリで押し通そうとした七瀬だったが、ペンギンは馴れ馴れしく羽というのか腕というのか、人間でいう手に当たる部分でぺちぺちと彼女の肩を軽く叩いた。



「これこれ、忘れるのは私の方でしょう。あなたまで一緒になって忘れてどうするんですか、うっかりさんですねえ。あ、この格好だからわからないのでしょうか? でも規則で人前では脱いではいけないと言われてるんですよね……」


「違うわ、アホタレ」



 鋭く突っ込みを入れてから、七瀬は左右あちこち別の方向を見ているペンギンの目を見据えた。



「もう話しかけないでくれる? じゃないと警察に突き出すよ」


「警察は困りますねえ。今の生活がとても気に入ってますし」



 困ると言いながら、全く関心がなさそうな泰然とした口ぶりだった。


 ショッキングピンクの不細工面の奥に、あの何とも形容しがたい微笑が見えた気がして、七瀬は思わず目を背けた。



「忠告はしたよ。二度と私の前に現れるな、鳥頭の鳥被り野郎」



 警察という単語まで出てきた物騒なやり取りに、オロオロしていた筒見だったが、七瀬に腕を引かれると我に返り、何となく一礼を返してから、いそいそとその場を離れた。



 遠ざかっていく二人の姿を目で追い続け、ついには人波に紛れて完全に見えなくなっても、ペンギンの中の男はいつまでも動かずに立ち尽くしていた。



「おい、コラ新入り! こんなとこで何サボってんだ? お前の持ち場は向こうだろうが!」



 置物のように固まっていた桃色の背中に、怒声が浴びせられる。叱責した相手は、同じティッシュ配りのバイトをしている水色のペンギンだ。



「……優しかった子が急に冷たく突き放すって、どういうことなんでしょうか?」



 男が虚ろな声で問いかけると、水色ペンギンはどうでも良さげに吐き捨てた。



「女か? なら他にいい男が出来たんだろ。んなことよりてめえ、ノルマは……」


「え? そうなんですか? では、私に問題があったわけではないんですね!」



 途端にご機嫌になった桃色ペンギンは、彼氏という設定にも関わらず、自分よりふた回りほど小さな水色ペンギンを抱き上げた。そして喜びを全身で表現するかの如く、くるくるターンして、その勢いのまま思い切り空へ放り投げる。


 突然の暴挙に、彼氏ペンギンはペンギンであることをかなぐり捨て、絶叫した。


 だが――無様に地べたに激突する末路は免れた。墜落地点で待ち構えていた彼女ペンギンが、しっかりと抱き留めてくれたからだ。


 突如として披露されたダイナミックなパフォーマンスに、目を引かれた人々が珍しがって集まってくる。気を良くした彼女ペンギンは、半分腰の抜けた彼氏ペンギンを再び振り回し始めた。



「うわぁあ! もうやめてぇぇえ!」



 彼氏ペンギンが悲痛な叫びを上げる。


 しかし、その声は皆の注目を一層強くするだけで――おかげさまで二人、いや二匹のティッシュ配りのノルマは、瞬く間に達成された。

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