3.再会


 勢いは弱まったものの、雨はか細い軌跡を幾重にも描きながらとめどなく地面に降り注いでいた。辺りを包む霧霞が青白い外灯を薄く広く散らし、錆びた遊具や朽ちかけたベンチを仄かに浮かび上がらせている。


 霧のおかげで視界はいつもより開けていたが、重苦しい靄を纏った公園は普段以上に薄気味悪く、鬱々として見えた。


 およそ一週間ぶりにそこを訪れた七瀬ななせは、しかし、遊歩道の奥から近付いてくる強い光源に気付いて足を止めた。



「おい、君」



 声をかけてきた相手は、彼女が想像していた人物とは違い、誰でも知っている国家公務員の制服を着用した者――自転車に乗った警察官だった。



「こんな時間に、こんな所で何をしているんだ。女の子一人じゃ危ないだろう」



 パトロール中と思しき年若い警官は自転車を下りもせず、口調同様、威圧的な強い視線を七瀬に突き刺した。



「すみません……猫が、逃げて」



 面倒なことになったと内心嘆息しながら、七瀬は大して上手くもない嘘で言い訳した。本当は、貰った猫缶をあの黒猫に供えるために来たのだが、正直に話したところで余計胡散臭がられるのは目に見えている。



「ああ、そう。とにかく早めに帰りなさい。この頃は変な奴がうろついているらしいから」



 しかし、警官はこちらの言い分などろくに聞いてもいないようで、大儀そうに注意を促しただけでさっさと去ってしまった。あまり仕事熱心なタイプではないのか、この天気でやる気が失せているのか、どちらかはこの際どうでも良い。


 少なくとも、七瀬が通いつめていたひと月の間には、警官が見回りに来ることなど一度もなかった。となると、やはり例の奇妙な男が原因か。



 警察が監視しているのなら、流石にもうここにはいないだろう。



「おや、娘さん!」



 ――と思ったら大間違いだった。



 傘を傾げて声の方を振り仰いだ七瀬が、唖然として固まる。



 たった今警官が過ぎ去ったばかりだというのに、大胆にもそいつは、前に出会った雑木林の奥ではなく、七瀬が足を踏み入れたばかりの遊歩道に現れた。



 この男が警官の言っていた変な奴本人であり、パトロールしていたにも関わらず見落としたのだとしても、誰もあの警官を職務怠慢だと責められないだろう。


 何故なら男は、五メートルはあろうかという木の上にいたのだから。



 凍り付く七瀬の前で、男は野猿よろしく器用に枝を飛び移りながら物凄い早さで下り、ついに遊歩道へと降り立った。



「良かった、また会えましたね。ずっと待っていたんですよ」



 そして、あの捉えどころのない笑みをくちびるに灯す。


 七瀬は、何も言わずに男を見上げた。


 前回会った時は座っていたのでわからなかったが、随分と背が高い。身長165センチの七瀬より頭一つ分大きいところから見て、190センチはありそうだ。細身ながらも華奢に見えないのは、骨格と筋肉が発達しているせいか。



「ええとあの、娘さん。もしかして、怒っていらっしゃいます? そうですよね、大切な猫さんを食べてしまったのですからお怒りはごもっともです。本当に申し訳ありませんでした」



 一応煉瓦を敷き詰められているとはいえ、濡れ汚れて苔生した道の上に正座し、三つ指ついて頭を下げる男に、七瀬はまたも面食らってしまった。



「別に、怒ってない。私の猫じゃなかったし、飼いたくても懐いてくれなかったから」



 仕方なく傍に近付いて屈み込み、雨ざらしの頭に傘を差し掛けてやる。すると、男は漸く顔を上げた。


 間近に外灯があるため、互いの表情がはっきりと見える。


 七瀬の仮面じみた無表情と対峙した男は、静かに彼女を見つめ返していた。切れ長のアーモンドアイは、不遜で気位の高いシャム猫に似ていなくもない。



 ふと、七瀬はその目に微かな違和感を覚えた。


 けれどすぐに彼から視線を逸らし、代わりに胸に抱いていた紙袋を差し出す。



「これ、食べる?」



 男は膝を付いたまま紙袋を受け取ると、開いて中身を確認した。


 俯いた漆黒の頭部に、あの黒猫の毛並みが重なる。


 無意識に七瀬の手が伸びた。不揃いの髪を撫でてみれば、滑らかで柔らかな感触が指先と掌をくすぐる。今はさておき、長らく念入りに手入れされていた証だ。


 なすがままにされていた男だったが、我に返った七瀬が手を引っ込めると彼も慌てて胸元を探り、スーツの内ポケットから何かを取り出した。



「あ、ありがとうございます。その、これ……ささやかですけれど、お礼に受け取ってください」



 そして心なしか顔を赤らめ、長い指先を七瀬に向かって突き出す。


 そこに摘まれていたものは、四つ葉のクローバーだった。


 正直要らないと突っ撥ねたかったが、勝手に身体に触れた手前、断るのも罰が悪く、七瀬はそれを渋々受け取った。



「…………ありがとう」



 一応、礼の言葉も述べておく。



「い、いえ、あの私の方こそ、ありがとうございます。ああ、またお礼を考えなくてはなりませんね」



 何故かしどろもどろに吃りながら、男は逸らした目を空に泳がせた。



「お礼なんていいよ。私もう来ないから、考える必要もないし」


「……え?」


「え?」



 男と七瀬の視線が、再びかち合う。


 発した言葉は同じであったけれども、疑問符の先に言わんとすることが見事なまでにずれているのは、わざわざ声に出して確認するまでもなかった。



「そ、そうですよね……私はあなたにとって言わば仇のようなものですし。うっかりあなたの心優しさに甘えてしまうところでした。娘さん、本当にありがとう。あなたのことは忘れません」



 途端に男は覇気を失い、風船が萎むかのように項垂れてしまった。七瀬は意味がわからないといった風に眉を寄せ、肩を竦めた。



「別に仇とも思ってないし心優しくないし、寧ろ忘れて欲しいんだけど。感謝の気持ちをどうしても示したいっていうなら、私の存在をそちらの記憶から抹消してくれると一番嬉しいかな」


「そうなんですか? じゃあ忘れます」



 七瀬の言葉に、男はあっさり意見を翻した。


 それなら話は早いとばかりに、七瀬は猫缶と一緒にビニール傘も最後の置き土産として譲ると、速やかにその場を後にした。男は前回同様、飄々とした眼差しで見送るのみで、彼女を引き留めようとはしなかった。



 もう、バイト帰りに遠回りしてこの公園に来ることはないだろう。



 掌の中に微かに残る黒猫と男の髪の感触を消し去るように、強く拳を握りながら、七瀬は吹き付ける霧雨の中を走り帰路を急いだ。

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