〈意識〉の氷壁

 長い長い階段は寒い寒い地下の世界に下ってゆく。

 アイヴィ・ダンテスが降り立った場所は、高さの果ても知れず左右の終わりもわからない氷の壁の前だった。

 純粋な氷の密度によって圧倒する氷壁を仰いで、ミハが佇んでいた。

「ミハよ。おまえを求める堕天使は、あれはいったい何なんじゃ」

 ミハは静かに振り返った。

「彼女は〈光〉だよ」

 挨拶も前置きもなくミハは弟子の問いに向き合う。

 しかし、その答えは誤答を怖れる生徒のように曖昧だった。

「僕にとって特別な〈光〉。誰にとってもそうなのかどうかはわからないけれど、彼女に出会ったとき僕はそれが特別な〈光〉だと思った。そういう経験なら君にだってあるだろう」

 アイヴィは目を細めて、頷いた。

「天使や堕天使と呼ばれてきた精霊現象の中でも彼女は少しばかり好奇心の強い精霊だったのかもしれない。だから僕と出会った頃、彼女はすでに誰かを求める心を持っていた。意志や言葉はまだなかった。それは僕が教えた。——教えたというよりは、彼女が勝手に僕の中から持っていった。僕と彼女がまぐわったときに」

 透明な氷の表面に手を伸ばしてミハは、指先の熱を封印の棺に伝えた。

 一呼吸おいて指を剥がすと、氷の壁に皮膚を残し、肉と骨が露出した指先から、赤い血がどくどくと流れた。

 顔をしかめるアイヴィの前でミハの指の傷は瞬く間に塞がってゆく。

「そのとき彼女の一部が僕の中に、僕の一部が彼女の中に交換された。彼女は肉の身体を構成することができるようになり、それまで性別のないものだった彼女が女の身体を持ったのも僕という人間の性別に合わせてのことだ」

 アイヴィは眉をひそめてミハの言葉を咀嚼した。

 精霊と人間の交合など聞いたことがない。

 捕縛した堕天使をどんなに根気強く育てたとしても、人間と愛し合って肉の設計図と生気とを交換し合える存在にはならない。

 その〈光〉は、やはり何かが特別だったのではないか。

「ミハよ。おまえは〈意識〉の一部とまぐわい、その片鱗を身に宿したということか」

 魔心はあくまでも〈意識〉を封じる氷の破片——封じる氷に滲み出た〈意識〉の生気を得るだけのことだ。

 だが〈光〉はかつて〈光と闇の意識〉の一部だった力、そのもの。

「僕がそのときに得た力と長命とを思えば、そう言ってしまうことも可能なのかもしれない。でもね、アイネ。僕たちはみな、もともとは〈光〉から生まれたものだ。僕らのように肉の世界に生きる物質よりも、精霊は〈意識〉のありように近い存在とされてはいるけど、本当のところはわからない。この氷の中に封印された〈意識〉だって、肉の獣でないという証明は誰にもできない」

 透明な氷の奥は、限りなく黒に近い青へと収束する。

 人には触れることも理解することも叶わない何かが、そこで永遠の眠りに就いている。

 自死の眠りを貪る〈意識〉の気配に魔心が騒ぎ、アイヴィは師匠が立っている場所ほど氷壁に近いところまで近付くことがどうしてもできない。

「まあでも、確かに僕は彼女の中に〈意識〉の想いを感じたりもした。 彼女は〈意識〉の賭けが形をとったものかもしれない。彼女がその好奇心で探しているのは、第四世界を生むための鍵なのかもしれないってね」

 アイヴィは鼻白む。

「すなわちミハ、おまえが鍵ということか」

 誰よりも深く〈意識〉の解明に沈み、〈意識〉の封印が〈意識〉自身による自殺であることを看破し、模擬世界の球の実験をくりかえして〈意識〉の絶望を理解したミハ。

 〈意識〉は、自死という結論を真っ向から否定しにくる何かをずっと待っているというのだろうか。

「そんなおこがましいことはさすがに考えないよ。〈意識〉が欲しているのは新しい世界の創造の芽であり可能性だ。芸術家で例えるなら、自分では思いもつかないような着想を求めているんだ。僕は〈光〉の世界の生んだ答えの一つでしかない。でも、もしかしたら彼女と僕との出会いとまぐわいは、ある種の奇跡だったのかもしれない。普通なら起こりえないような特別なことだったのかもしれないね」

 やれやれとアイヴィは頭を振った。

「おまえの答えはこの世界を滅ぼして第四の世界へと向かうことだろう。いまこの世界で生きる人間たちにとっては何とも傍迷惑な奇跡じゃな」

 固く氷結した封印の棺は自重によって軋み、地鳴りのような轟音がたえず足元から伝わってくる。

「でも僕だってこの世界に愛着はあるんだよ、アイネ。だから僕は、彼女にもっとこの世界を知ってもらいたかった。この世界を終わらせてもっとずっと価値のある世界を生み出せると彼女が確信したとき、それが、彼女が第四の世界を選択するとき。そのとき彼女は〈意識〉に還り、〈意識〉を目覚めさせる」

 アイヴィは手の中で転がす硝子玉に目を落とした。

 井戸の底で拾ったそれは、三十年前にアイヴィが落とした標。

 閉じ込めた血液はほとんど黒く変色して、恨みと憎しみの年月を訴えるようだった。

「可愛い堕天使に旅をさせるためにおまえは隠れて逃げ回っているというわけか。そうやっておまえは遥か空の高みから世界を見下ろすような態度で、人間に猶予を与えているつもりか?」

 実際のミハは、いつも裸足で世界各地の労働者に交じりながら長命な人生を適当に暇潰ししていることをアイヴィは知っている。こいつも、よっぽど王様が性に合わない人間だったのだろう。

「そんなつもりはないけど、どうせまた明日にでも戦争が始まるなら、終わりは早いほうがいいかな、とも思っているかな。昔も今も未来も人々が争い好きなのは変わらないし、争おうが平和であろうが、第二世界の生命と宇宙は必ず終わりを迎えるものだしね」

 アイヴィが手中に見つめる硝子玉をミハも見つめて、いま思い出したように彼は飄々と首を傾げた。

「そういえば、僕を殺しに来たんだったよね?」

 アイヴィは口の端に不機嫌な笑みを浮かべた。

「ああ、そうじゃ」

 魔心に刻まれた復讐の念に反応して硝子玉の中の血液が沸騰し、ぱりんと硝子の殻を砕いた。

 滾る血液は赤黒い小さな剣となってアイヴィの手に収まる。

 ぐるぐる巻きに纏めた髪からミハが巨きな象牙の杖を抜いた。長い長い髪が足元に流れ落ちて生き物のようにうねった。

 まったく猿芝居じゃな、とアイヴィは不機嫌さを濃くする。

 力を使うのに杖なんて必要としないくせに——。

 アイヴィはミハが杖を振るうより先に動き、腕の一閃で剣を投じた。

 〈意識語〉によって剣は加速し、旋回した。

 青い氷壁の前で、鮮やかな真紅が宙を染め上げた。

 おびただしく地に降り注ぎ、それは二人の間に赤い川となって流れた。

「赤毛は阿呆に見えるからやめろと言ったはずじゃ」

 赤いドレスの弟子と対峙するミハは、首筋のあたりでばっさりと失われた赤い髪を揺らして笑っている。

「笑うな、くそ師匠め。ロシュフのしあわせを奪うわけにはいかんじゃろうが」

 とはいえ、たとえアイヴィが全身全霊でミハに勝負を仕掛けたところで、相打ちの見込みさえないこともわかっていた。

 憎しみは、まだ根深く魔心の中に溶けている。それは三十年もかけて濃縮してきた恨みと屈辱だ。簡単に消し去ることはできない。地下世界への階段を下りきってミハに辿り着いたそのときに暴走が起きてもおかしくはなかった。だが魔心は怨念の泡を立てて煮立ちながらも一線を越えなかった。よくねえな、という誰かの声が魔心を宥めるようにこだましていたからだろうか。

 アイヴィは碧色の瞳を瞬いて言った。

「私もまた〈光〉の世界が生んだ答えの一つとして、師匠であるおまえに意見を申し述べておく。あした第四の世界を見たいというおまえの想いと、たとえば下町の肉屋の店主の今日も無事に店を開けたいという想いは、まったく等価のものじゃ。酔っ払いの地下鬼が悪さでもしないかぎり、天秤は傾かない」

 すると象牙の杖を無造作に放り捨てて腕組みをしたミハが、修行の終わりの口頭試問を思い出させる顔付きで訊いた。

「アイネ、君の想いは?」

「とっとと帰って魔痺タバコが吸いたい」

 ミハは思いっきり嫌そうな顔で肩を竦める。

「あんなものをどこで覚えたんだか」

 ミハが魔痺タバコなしで魔心の平常を保っているのは、彼の中にあるものがただの魔心ではなく〈意識〉そのものであるからなのか。あるいは、ただの魔心だったとしても、ミハにとって感情の制御など大して難しくないのかもしれない。

 この男が喜怒哀楽に振り回されているところを見たことがない。

 生きているのか死んでいるのかわからないのは第一世界ではなくミハ自身なのではないか。

 ミハは頭を振りながら近付いてきてアイヴィのすぐ目の前に立ち止まった。

「何じゃ」

「師匠としてもういちど言わせてもらうが、君は魔心師に本当に向いてないよ」

「何でじゃ」

 賢者の瞳に辛辣な色を浮かべてミハはアイヴィを見下ろしてくる。

 呆れているような、怒っているような、笑っているような声でミハは言った。

「わかっているはずだよ」

 ああ、わかっているさ。

 だから私は魔心師ではない。魔心屋じゃ。

「魔心、要らないよね」

 ミハはアイヴィの胸に手を当てて彼女の瞳を覗き込んだ。

「何をするんじゃ」

 狼狽して後退ろうとしたがすでに遅かった。

 胸の中で心臓を鷲掴みにされた感覚がしてアイヴィは息を失う。心が吸い上げられてゆく。彼女の全身全霊を支配していた魔心が根こそぎ、持っていかれる。手足が急激に冷えていって、歯の根の合わないほどの震えがきた。

 空っぽの虚ろになった身体を抱えてアイヴィは死をすぐ近くに感じた。

「ミハ、おまえは、また……」

 一度目は、与えずに。

 二度目は、奪う。

 死の恐怖を潜り抜けてアイヴィはもがきながら手を伸ばし、魔心とともに流出していく怒りの感情を掴み取った。それは私のものだ。私のものだ。私の心は生きている。私の心はまだ生きられる。心臓が大きく一つ跳ねた。身体中を熱い血が巡りはじめる。

 止まっていた時間が、動き出す。

 とん、と軽くミハはアイヴィを押しやった。

「アイヴィ。君の心が今日も明日も明後日も人間らしい喜怒哀楽の波乱に満ちているように」

 よろめいたアイヴィの足元に奈落があった。

 背中から真っ逆さまにアイヴィは堕ちてゆく。

「そのドレスは悪趣味だけど、はけっこう君に似合っているんじゃないかな。ほら何て言ったっけ、〈赤い鉄線〉の——」

 遠ざかるミハの青い瞳には、旅立たせる弟子の新しい人生に向けた祝福があった。




 アイヴィは背中からふかふかの寝具の上に落ちた。

 周囲には赤い鉄線の花が咲き乱れる。

 元いた悪趣味な寝室に戻されていた。

「婆あに何を言ってるんじゃクソ師匠。この齢で今さら色恋も何もないわ」

 アイヴィは胸の悪くなるような純白の寝台から這い出て花々の間に降り立った。

 徐々に脳裏に蘇ってくるのは、碧翼城の黒い礼拝堂。分離したアイネの心が天井から見下ろしていた光景だ。

 自分の身体は〈赤い鉄線〉によって強奪されたのだ。あれは、確か……。

 寝室の扉がとつぜん開いた。

「おお、おお、我が花嫁よ! お待たせして申し訳なかった。婚礼の夜だというのに無粋な客が引きも切らずに夜更けまでお独りにしてしまった。嗚呼、式のあいだじゅう貴女は天使のようにお美しかったが、こうして私を許して微笑みかけてくださる貴女は何と慈悲深く気高いのだろう、嗚呼」

 誰がいつおまえに微笑んだんじゃ。

 ツギハギやほつれ穴だらけの古い燕尾服を着たアマデオ・キンケル風紀長閣下が、嗚呼、嗚呼と泣き咽び、鉄線の花々を蹴散らして踊り狂いながらアイヴィの元に近付いてくる。

 何なんじゃ、こいつは。

 新種の狂人か?

「喜んでいただけただろうか。貴女に相応しくあるために〈赤い鉄線〉は正式に〈忘れられた羊の帝国〉を継承し、今日より私は皇帝に、貴女は皇妃になった。遠からずヴィオロンも貴女のために玉座を用意するでしょう。嗚呼。万歳。嗚呼!」

「帝国を継承したじゃと?」

 万象教の青臭いガキどもよりも荒唐無稽な話をしよる。

「すべて貴女を手にするためです。嗚呼!」

 号泣がアマデオ・キンケルの顔を鉄線の花々より真っ赤に腫らした。

 涙を拭おうともせず両手を広げて迫り来るアマデオ・キンケルにアイヴィは追い詰められようとしていた。

 魔草もなければ魔心もない。

 アイヴィ・ダンテスは舌打ちした。

「まったく女というのは忌々しいもんじゃな」

 散らされた赤い鉄線の花びらが舞い上がり、寝室の扉がぱたんと音を立てて閉まった。

 目前の燕尾服のツギハギとほつれ穴をアイヴィの視線は下から上に辿って、さらに顔を上げる。ぞわりとした寒気に背筋を撫でられてアイヴィは凍りつく。魔心を失くしてもなお鋭いアイヴィの感性が警告を鳴らした。

 糸の飛び出た燕尾服の肩に、ほっそりとした女の手が這っている。

 肩越しにぬるりと現れた青いドレスの女が、色のない唇をアマデオ・キンケルの耳元に寄せた。

「わたし、街で布告を見たの。ねえ、あなたも皇位継承者なのでしょう?」

 ミハの元に連れていって——。

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