ふたりの再会

 ああ。ロシュフ。あなたはそんなにも——


 噎せかえる花の香りの中でアイヴィ・ダンテスは、ぱちりと瞳を開いた。

 柔らかくふかふかとした寝具の上に身体を起こす。

「何じゃこの悪趣味な部屋は」

 豪奢な金銀の装飾に彩られた、だだ広い寝室は、溢れんばかり赤い鉄線の花で埋め尽くされていた。

「何じゃこの悪趣味な服は」

 花々と同じ真紅色のドレスを着せられてアイヴィ・ダンテスは純白な寝台にいた。

 肩に垂れる銀色の髪のちゃんと櫛の入れられた色艶が、覚醒前の夢の記憶に彼女を引き戻す。

「あのくそ亭主が、三十年も経ってろくでもない悪夢を見せるもんじゃ。ろくでもなさすぎて聖言の封印さえも解けるとは」

 しかし目覚めたばかりの瞬く瞳はアイヴィ・ダンテスが魔心を得てから一度も流したことのない滂沱の涙に濡れていた。

 忌々しい。

 アイヴィ・ダンテスは赤いドレスの上から胸を押さえた。

 魔心はそこにある。

 古くて新しい感傷に泣いているだけで、今はまだ大人しい。

「魔痺タバコが要るんじゃが……」

 ふいに、どくんと心臓が跳ねた。

「何じゃ?」




「ぶんぶん、ぶん。ここは蜂の巣、みたいだ、なー」

 堕天使は碧の六角形の部屋をほうきではきながら、でたらめな よくよう で ひとりごと をいった、

 使われていないへやもたまには そうじ をしないと。

 じゃないと箒が家出して、鍋のおかずのなかからぐずぐずと泣きながらかえってきたりする。

「ん?」

 堕天使は金いろえのぐの瞳をくるくる回して立ち止まった。

 くびをかしげて不思議な よかん に瞬いた。

 ぱちんと堕天使は弾けた。

 あたりいちめんに金ぷんがまいあがった。




 アイヴィ・ダンテスはふっと身体を引っ張られて空間を転移した。それは〈通路術〉が成功するときの移動の感覚そのものだった。

 視界一面に金色の霧が漂っていた。

 やがてそれは金色の光の粒子に収束し、さらに金砂か金粉のような物質になり、次第に一つところに集まって人型の輪郭を成す。

 そして。

 アイヴィの前でそれが完成形を現した。

 金の瞳に金の髪、美しく優しく無垢な顔をした青年が。

 けれど、彼の瞳の中や爪の先からはときどき金砂がさらさらとこぼれる。

「ロシュフ……? ロシュフなのか?」

 アイヴィは手を伸ばして青年の両腕を掴まえた。

 青年はべったりした絵の具の金色が詰まった瞳をくるくると回した。

「ミハさまが、また女の子を拾ってきたのかなあ」

 高さ低さのでたらめな抑揚で青年は呟いた。

「ミハじゃと」

 アイヴィは青年を掴まえたまま周囲を見回してやっと気付いた。

 碧の六角形の部屋だ、ここは。

 簡素な寝台、衣装箪笥、勉強机。アイヴィが修行時代に使っていた部屋だ。

 洞窟群の——。

「ロシュフなんじゃな」

 一歩を踏み出してアイヴィは青年の胸にほとんどぶつけるように額をあてた。

「ぼくは、堕天使」

「堕天使。そうじゃな。そうなんじゃろう」

 あのときミハが連れていった堕天使から、喰われたロシュフを引き剥がして、足りないものを〈光〉で補って、そうして出来上がったのがこの者なのだろう。

 あのとき堕天使の耳にロシュフが囁いた秘密が、集合住宅のアイヴィの部屋でミハに四散させられた堕天使から零れ落ちて、それは巡り巡ってアイヴィの心に届けられた。元はロシュフのものだった秘密が通路術の入口になり、元はロシュフだったこの堕天使が出口の標となって、アイヴィはここにやってきた。

 三十年をかけて探し求めてもついに見つけられなかった師匠のねぐらに。

「今思えばな、ロシュフ。私はどうしてあんなにもくだらないことで悩み苦しんでいたのかがわからない。小娘の視野の狭さは哀れなもんじゃな。もう少し私が気の利く女じゃったら、切れ者の宰相にでも父の狂気を相談するか、愛する夫に何もかも打ち明けて笑って許してもらうこともできたはずなんじゃ。私が夫の心を掴まえていられれば、あなたは帝都を彷徨ったすえに堕天使と出会ってしまうこともなかったのかもしれない」

 五十近い中年女になればすっきりと見透せる世界が、十七の小娘には煙を詰めた燻匣に閉じ込められたように何も見えない。

 アイネを閉じ込める匣は、ダント・テスオロスという名の巨大で小さな匣だった。

「でも、だからこそ小娘の初恋は煙の世界の窓から初めて外の世界を見るみたいに鮮烈じゃった。あなたにしたような恋はもう二度とできない。それが人生というものなんじゃろうな」

 ふと堕天使が、アイヴィの両肩を掴んで腕を伸ばし、二人の間に距離をとった。

「ロシュフ?」

 堕天使はくるくるとよく回る金色の瞳でアイヴィをじいいっと覗き込んだ。

 ちゃんと見えているのか見えていないのか、あるいはふざけているのかどうかすら、全然わからない瞳の動きだ。

 ぱっとアイヴィの両肩から離した手を堕天使は自分の両耳に持っていき、堕天使となっても形の綺麗な左右の耳を同時にあっさり毟り取った。

 左右の手を宙で合わせて、

「ぱんっ」

 と叩くと、ちぎれた耳はさらさらとした金砂になって零れて散った。

 くるくると瞳を回して堕天使は言った。

「小さな女の子」

 アイヴィは瞠目した。

 立ち尽くす彼女に近付いて堕天使は、銀色の頭のてっぺんに片手を置いた。

 ぽんぽんと優しく頭を撫で、堕天使はアイヴィの額にそっと口づけた。

「ごめんね」

 くそ亭主。

 謝るならもっと真面目な顔と抑揚で謝ってほしいもんじゃ。

 私は悲惨な結婚生活のせいで女というものでいることがほとほと嫌になって、夫に死なれた後でもう女をやめようとしたけれど、だからって男になれるわけでもなし。

 一足跳びに老女になりたい一心でこんな喋りになったんじゃ。

「巣を作って」

「巣?」

 アイヴィは上目遣いに堕天使の顔を見て訊き返した。

「今度が完璧の巣」

 今度は完璧な巣を作って——。

 堕天使の中の夫が伝えたいらしい言葉に戸惑ってアイヴィは眉をひそめた。

 堕天使はくるりとアイヴィから離れて落ちていた箒を拾った。

「堕天使は、しあわせ」

 眉をひそめたままアイヴィは小首を傾げた。

「あんなクソ師匠と暮らしていて楽しいか?」

「堕天使は、今しあわせ。一番目はやかんにお湯が沸くとき。二番目はお茶碗に石鹸の泡がたつとき」

「ずいぶん小さな幸せじゃな。三番目は?」

「ミハさまが帰ってきたとき」

 アイヴィは思わず鼻を鳴らした。

 まあ、夫にとってはご先祖様じゃからな。

「そのミハはどこじゃ」

「ミハさま。さっきまでいた」

 アイヴィは赤いドレスの裾を持って洞窟群の台所へ向かった。

「ロシュフ。階段をどこかで見なかったかのう」

 後を着いてくる堕天使が、箒で金の髪を梳かしながら答えた。

「掃除したことない。から、ない」

 アイネがここで修行していたのは八ヶ月ほどだが、堕天使は三十年くらいここで暮らしている。その彼が階段を知らないのなら。

「術で隠しているのか、あるいは……」

 本当のところ当たりは付いている。何故なら今のアイヴィには魔心があるので、魔心の気配を探ることは容易い。

「気配などという軽いものではないのう。あまりに濃すぎて素人の頃の私には逆に気付けんじゃった」

 アイヴィは台所の隅の井戸の前に立ち、〈意識語〉を詠じた。

 こぽこぽと音を立てて水が、塊のまま井戸から這い上がってくる。ごぶり、と井戸の口から水の塊が飛び出した。詠じつづけるアイヴィの〈意識語〉によって水の精霊がふわふわと飛翔し、波打つ透明な水の立方体を支えて天井付近に浮遊させた。

 堕天使が透明な立方体の水面にぷかぷかと浮いた。

 水を抜かれた井戸を覗き込み、アイヴィは会心の笑みを浮かべる。

 井戸のへりを跨ぎ、風の精霊を沸き立たせる。赤いドレスの裾が上昇気流に捲れてはためく。

「小さな女の子、さよなら」

 ぷかぷかと浮いた水面の向こうから、くるくると瞳を回しながら堕天使が手を振った。

「さようなら、ロシュフ」

 アイヴィ・ダンテスは井戸の底に身を躍らせた。

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