最終章 失われた娘

囁かれた秘密

 湖畔の庭園を小さな女の子は小さな蜜蜂みたいにふわふわと移動してた。

 すぐ人の間に隠れて消えてしまうのに、その小さな女の子はまたすぐ垣根の間から現れる。

 何だかそういう遊びみたいだった。

 僕は二十回ぐうぜん彼女を見付けたら二十一回目に彼女に声をかけようと思ったんだ。

——檸檬膏の葉っぱはお茶に煮出す前に、ぱんと叩くのです

 それが人生のとても大事なことみたいに彼女は言った。

——そうすると香りが立つの

 小さな女の子は神妙な顔つきで手のひらと手のひらをぱんと打ち合わせた。

——小さな女の子は特別なひとなんだね

——私は何も特別じゃないけれど

 戸惑ったように碧色の瞳を瞬いて彼女は答えた。

 ううん、特別だよ。すごく特別だ。上手く言えないけど。上手く言えないな。僕の心はときどき言葉にならない。肝心なときほど言葉がちゃんと出てこない。多分どこかが壊れてるんだ。だって兄たちも姉たちもみんな身体のどこかが壊れていたし。とにかく君は特別な女の子なんだ。こういうのを皆はなんて言ってるっけ。天使。そう、天使。でもヴィオロンでは天使という言葉は言っちゃいけないって聞いてる。国王が〈神〉を嫌っているから?

 じゃあ蜜蜂。蜜蜂はとてもふわふわで美しいのに真面目な生き物だから。

 彼女は僕が初めて会ったふわふわで美しくて真面目な女の子だった。

 たとえ美しくなくても心が真面目なひとはそれだけでとても特別な感じがする。帝都には滅多にいないから。

 帝都の空気が悪いせいかな。

 帝都にはろくな人間がいない。僕もその一人だけど。




「魂の綺麗な人ほど早死にするって言うだろ。兄たちや姉たちはきっと凄くいい人間だったんだ」

 女の裸の胸に這うようなくちづけを落としながらロシュフは言った。

「天使なんていないわ。だって神が嘘なんだもの」

 彼の美しい金髪を女の長い指が撫でている。

「天使はいるよ。今は宮殿にいる」

 女はくすくすと笑った。

「なら、わたしは堕天使ね」

 ロシュフも笑った。堕天使って何だっけ、と思いながら。

「そうだね」

 女はロシュフの顎を指先で仰向かせた。

 堕落に誘う妖艶な笑みが、麻酔のように彼の心を痺れさせた。

「聞かせて、あなたの秘密を。地下に眠る〈魔〉がそれを聞きたがってる」

 女の冷たい肌に身体を重ねると、罪の意識も凍結していくような気がするのに、心の奥に秘められた真実だけは、消えない燠火みたいに燻りつづける。

 手放したら楽になるのかな。

「正しくないことは面白いから。正しい選択はつまらなくて〈魔〉を眠らせる。正しくないことは〈魔〉を目覚めさせるかもしれないわ」

 ゆきずりの女の耳に、ロシュフは彼の秘密を囁いた。




 僕はずっと〈死〉が怖い。〈死〉は僕の目が開いたときから間近にあった。それはどんどん迫ってきていた。上から下に。一番上の兄から、すぐ上の姉まで。落馬して死んだ二番目の兄を除けばみんな病気で死んだ。悪い風邪とか、内臓の腫れものとかだ。

 僕はずっと〈死〉が怖かった。次は僕の番だと思っていた。

 〈死〉の次に怖いのは〈王冠〉だった。

 皇帝になれる人間はもう僕しか残っていない。でも僕は皇帝に向いてない。さっきも言ったよね。言葉を出すところが壊れているから。

 みんなが僕に失望した。子供の頃から、何度も、何度も。いつも、いつも。みんなが僕に失望した。僕も僕に失望した。

 失望から逃げて楽になれる場所が帝都にはたくさんある。でもそういうところでは魂が壊れる。

 僕は魂が壊れていくのがわかったけど、どうすることもできなかった。

 そんなときだった。小さな女の子に出会ったのは。

 彼女は天使だった。

 彼女なら僕を〈死〉と〈王冠〉の恐怖から救ってくれる。

 僕にはそれがすぐにわかった。

 彼女さえ僕を愛してくれれば僕は救われるんだ。僕にはわかった。

 恋ならたくさんしてきたけど、そんな気持ちになったのは初めてだった。

 彼女がヴィオロンでよくない病気にかかったと聞いたとき、もしも彼女がそのまま死んでしまったら、僕は自殺しようと決めていた。

 でも彼女は死ななかった。賭けは僕の勝ち。

 やっぱり彼女は僕に神様がよこされた天使だ。




『ねえ、ロシュフって呼んでもいい?』

『もちろん。僕は君のものだよ、アイネ。そしてアイネは僕の——』

 僕の天使。あるいは蜜蜂。

『私もあなたのものになるわ、ロシュフ』

 彼女は小さくてふわふわで美しくて真面目で……。

 そして何か秘密を抱えているみたいだった。

 その秘密が彼女を苦しめていた。

 とても、ものすごく。




『ロシュフ、これは誰』

 昔の王様が描かれた肖像画の前で足を止めて彼女は言った。

 彼女は絵を見て震えていた。泣きそうな顔で口元を押さえた。

『アイネ? どうかしたの?』

 俯いて彼女は僕から顔をそむけた。

『何でもないわ』

 少し赤い顔をしていた。

 僕は彼女が誰かを思い出しているんだと思った。肖像画の王様の顔に誰かの面影を重ねているんだと思った。ヴィオロンに残してきた誰かなのかもしれない。僕との結婚のせいでヴィオロンで別れてこなければならなかった誰か。

『何でもないのよ、ロシュフ』

 それ以来、彼女は二度と僕の目を見なくなった。

 僕の耳ばかり見てた。

 僕は……。




 僕のせいで彼女が望みを失ったんだとわかっていても、彼女のためにしてあげられることがなかった。

 僕はまた〈死〉と〈王冠〉が怖くなった。

 その怖さは前よりも酷くなってきた。

 僕はもう救われないのかな。

 彼女が目の前にいると僕はどうしても彼女の心が欲しくなる。〈王冠〉の義務を言い訳にして身体が勝手に動いて彼女を苦しめる。ミハート王の絵の前で彼女をむりやり犯したこともある。心を奪える方法を僕は他に知らない。僕は誰かに嫉妬しているのかもしれない。今までこんな気持ちになったことがないからこれが嫉妬なのかわからないけど。

 僕は宮殿に帰るのが怖い。

 僕はもう救われないのかな。

 僕は彼女を救けてもあげられないのかな。

 頭も魂も壊れてる僕には無理だよな。

 僕は彼女と出会って初めてわかったんだ。

 僕は今まで誰も愛したことがなかったんだね。

 君のことも愛してないよ、堕天使。

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