慟哭の夜
雇われ魔心師からの知らせが届いたのは三日後の夕方だった。
アイネは変哲のない挨拶状に小さく〈意識語〉で書かれた時間と住所を読んで、封筒ごとそれを暖炉の火に燃やした。頭痛を理由に早めに寝室へさがって、支度を整えた。仮面舞踏会のために取り寄せてあった庶民の地味な服を着て、黒い肩掛けを頭からすっぽりと巻きつける。ロシュフから教えてもらっていた皇族しか知らない秘密の通路を使って宮殿を忍び出た。
街路で拾った馬車は近頃ロシュフが懇意にしていると噂の高級娼婦の私邸に向かった。
私邸の近くで雇われ魔心師が待っていた。
「皇太子がお寄りのあいだは使用人は外出させられる決まりのようです。これこそ格好の機会ですよ」
「警護は?」
「まったくありません。皇太子は警護を撒くことができれば暗殺者にも居所を掴まれないとお考えのようで。このごろの世情のきな臭さを思えばずいぶん命知らずなお振る舞いですが」
「あなたは堕天使に都じゅうの精霊の声を拾わせているのね」
アイネは魔心師がカンテラのように提げる堕天使の捕獲瓶を見て言った。
「はい」
魔心師は高級娼婦の私邸の裏口にアイネを案内した。
精霊が騒ぐまでここで待っていなさい、と指示してアイネは建物の中に入った。
三階の西側の寝室。魔心師の情報どおりに階段を上ってゆく。二階を過ぎて三階に上る途中から耳慣れた呻き声が聴こえてきた。アイネを相手にするときよりも声は哀しげに聴こえる。寝台の軋む音を数えながらアイネはその部屋の扉を開けた。
ロシュフが頭を上げて振り返った。裸の女を下にしたままで。
「アイネ。どうして」
ぼんやりとした虚ろな顔でロシュフは言った。
「理由は訊かないで。ロシュフ、今すぐに逃げて。下に暗殺者が来ている」
彼の向こうで裸の女がむくりと身を起こした。長い黒髪の女。ぐちゃぐちゃに口紅の乱れた唇から赤い鮮やかな血がひとすじ、垂れている。
ロシュフが、戯れに噛み切られたらしい口の端を手の甲で拭った。
ぞわりと寒気がした。
この感覚は何だろう。
何かが変だ。どこかおかしい。何がおかしい?
女が赤い舌で赤い血を舐めとって嬉しそうに笑ったから?
違う。
その笑い声は女の喉を震わせずに、アイネの頭の中で響いた。
アイネの特別な感性に。
人じゃない……。
この女は、人間じゃない。
「ロシュフ、その女から離れて。早く——」
ここに精霊を操るための〈魔草〉はない。ならば魔心を。
魔心を目覚めさせなければ。魔心。魔心で。不気味なこの精霊を〈むこうがわ〉に送り返さなければ。
女はロシュフの前に膝立ちになって彼の頭を両手でそっと掴まえた。
アイネは破壊を意味する〈意識語〉を叫んだ。それで魔心が攻撃に動くはずだった。
でも何も起こらなかった。
ロシュフを掴まえた女が汚れた唇を大きく開けて——裂けた口をもっと大きく開いてロシュフの頭を呑み込んだ。
ばり、と骨の砕ける音がした。
ばり、がり、ばり、むしゃ。
五口以上はかけずに、ロシュフの全身が女の口の中に消えた。
「なん……何、で……何故……」
アイネは呆然と目を開いて突っ立っていた。
どうして魔心が動かない。
どうして。
彼が消えるところを見たのに、どうしてまだ今も魔心は動かない?!
「い、や、ロシュフ、いや……いや、いやあああああっ」
頭を抱えてアイネは叫んだ。
それでも魔心は動かない。
何も起きない。
精霊が躍らない。
「ミ、ハ……ミハ……ミハ……!」
どういうこと。どういうこと。どういうことなの。
《ミハ? ねえ、ミハって言ったの?》
女が飛び上がって寝台から身を乗り出した。
女の裸身は飛び散ったロシュフの血と肉片でまだらに赤く染まっていた。
《あなた、ミハを知っているのね? ねえミハはどこにいるの? わたしはミハに会いたいの》
「知らない……ミハ様……ミハ……!」
《知らないの? でも知っているんでしょう?》
「ミハ様……助けて……助けて、ロシュフを……っ」
《わたしはミハに会わなきゃ。だってミハが言ったのよ。いつか一緒に〈意識〉に還ろうって。この世界を終わらせて新しくするためにわたしがぜったい必要になるって》
「終わ……らせる……世界、を……」
——僕は第四の世界が見たいんだ
——価値観はちょっと異なるかな
混乱してのろのろと後退るアイネの前で、女が赤い瞳を輝かせながら唇を舐めた。
《あなたを食べれば、あなたが見たミハに会えるわね》
「堕天使」
前触れなく男が部屋に立っていた。
《ああ、ミハ》
現れたミハに歓喜のまなざしを向けて、堕天使と呼ばれた女は両手を伸ばす。寝台を蹴って一枚の羽のようにふわりと舞い、ミハの首に抱きついた。
「ミハ……」
アイネはかすれた声で師匠の名を呼んだ。
「魔心を……」
汗ばんだ手を握りしめてアイネは己の胸に叩きつけた。ここにある筈のものがない。与えられたと信じていたそれが、どこにもない。
——君は魔心師には向いてないかもね
「ああ。僕は君に魔心を刺さなかったんだ」
ミハは頷いた。
空しく服の布を鷲掴みにしてアイネは膝を折った。
アイネは全てを理解した。
氷原で魔心を得たあのときの感覚は、ミハの注ぎ込んだまやかしの術だった。
ロシュフの愛撫にうずいていたのは魔心ではない。
ただの心だ。
「堕天使、どうして彼を食べたんだい?」
血まみれの裸の女の背中をあやすように抱いてミハが訊いた。
《彼の血はあなたの味がした。それを入口にすればあなたのところに出るわ。会ったときからそんな気がしたの。彼はあなたに似ていたから。生きているのか死んでいるのかわからないって言っていたあなたに》
凍りつくことも暴走することも許されない心と頭でアイネは巡る疑問の一つを呟いた。
「堕天使……?」
こんな堕天使は見たことも聞いたこともない。
私の夫を食い殺したこの女が、堕天使?
あの毒にも薬にもならない哀れな囚われ者の堕天使だというの?
弟子の疑問を解いてくれようとはせず、ミハはただ首を振った。
「残念だよ、アイネ。僕にとっても」
そしてミハは消えた。
堕天使ごと消え去った。
どうして。
喉の奥から引き攣れるような嗚咽が込み上げてきた。
どうして盟約を破った。
どうして。
それはアイネが未熟だったからだ。アイネの心が未熟だったからだ。アイネには魔心師の適性がなかったからだ。アイネは魔心師になるべきではなかったからだ。
そんなことはわかっている。
そんなことは自分が一番よくわかっている……!
ミハ。
慟哭は怨嗟となり、その名を呪いそのものと変えて心に刻んだ。
雇われ魔心師が部屋に入ってきて、寝台の血溜まりと肉片に息を呑む。
代わりの死体を探してこないと、と言ったのが自分なのか魔心師だったのかアイネは憶えていない。
嘔吐したのはたぶん自分だ。
なれなれしく背中をさすりながら雇われ魔心師が同情するように言った言葉をよく憶えている。
どんな奥方だって、夫の浮気現場に踏み込んだら同じことをしますよ。
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