黄金色の系譜

 ロシュフがその屈託のない言動と明るく柔らかな容貌の内に、深い孤独を持っていることは、アイネも気付いていた。

 彼は六人兄弟の末子だったが、三人いた兄と二人の姉はみな二十歳まで育たないまま夭折した。帝室直系ではたった一人の皇位継承者となった重圧が、すぐ上の兄皇子を亡くした八歳のときから彼にのしかかった。

 義務と期待と失望から逃げるように彼は放蕩の私生活をつづけてきたのだ。

「食べ物とか飲み物を出してくれるところに言って香草園を作っておいてもらったんだ」

「それって、いつもお皿のがちゃがちゃと鳴る音がしていて、熱気がこもっているところ?」

「そうそう」

 厨房という言葉を覚えられなくたって帝国皇太子の仕事に支障はないのだから、アイネはわざわざ無粋な訂正をしなかった。

 ロシュフは新しく香草園のつくられた厨房裏の菜園にアイネを案内してくれようとしていた。

 広大な宮殿を端から端まで歩くことになるけれど、それ以上に途中でロシュフがいろんな区画に寄り道するので夜までに香草園には辿り着かないだろう。いろんな区画の長にアイネは親しみを込めて挨拶をし、独特のしきたりの多い帝国宮廷での皇太子妃の暮らしで味方につけておいた方がいい人たちをごくごく自然に覚えていった。もしも事前に皇太子妃が宮殿を見回ることが触れられていたら、彼らは畏まった準備のために一日を潰してしまうだろう。急に思い立った遊びを装ってこういうことをするロシュフは、やっぱり凡愚などではないとアイネは感じていた。

 だからこそロシュフは生活に問題を抱えている。

「ねえロシュフ。皇太子の仕事ってすごく大変?」

「うーん、でも皇帝ほどじゃないよ」

「皇帝になるのはいや?」

「なりたくはないけど。僕なんか、他になれるものもないと思うよ」

 この中に、本当に皇帝になりたかった人はどのくらいいるのかなあ。

 そう言って、ロシュフは史覧室の壁を飾る歴代皇帝の肖像画を仰いだ。

 ゴルトシャーフ家の歴史は六百年。皇帝の称号を成立させてからは三百五十年ほどだ。建国の始祖王まで遡る肖像画の列は、帝国史を彩る歴史画を挟みながら四方の壁をぐるりと埋め尽くしている。天井の高い史覧室には、ぶらぶらと歴史画を眺めて回る二人の硬いかかとの足音が、とてもよく響いた。

 アイネは一つの肖像画の前で足を止めた。

「ロシュフ、これは誰」

 アイネの隣に寄ってきたロシュフが、その絵を見上げて宮廷教師に暗記させられた一族史を掘り起こす。

「それはえっと、四代目ミハート王かな」

 一族の特徴である黄金こがねの髪色と青い目をもつ若い王がそこには描かれていた。

「たしか戦で早死にしちゃったから、五代目は彼の弟だ」

 王冠を戴き、戦乱の世を象徴する髑髏を抱え、片手に錫杖を持ってこちらを見下ろしている。

「アイネ? どうかしたの?」

 アイネは蒼ざめた顔で口元を押さえて立っていた。

 王の顔は師匠のミハに酷似していた。あと少しでミハの名前を洩らすところだったが、かろうじて堪えた。その動揺の大きさは、誰が見ても異様に感じられただろう。

「どうかし——」

 俯いてアイネはロシュフの視線から顔を隠した。

「何でもないわ」

 王の持つ錫杖が魔心のつららに見えた。

 忘れるな、と警告されている気がした。私の中には魔心がある。私は逃れられない命令に支配されている。

「アイネ……?」

 アイネは心配そうに彼女を窺うロシュフから顔をそむけた。彼をまともに見つめ返せるわけがない。

 ロシュフがアイネの腕を取って引いた。

「何でもないのよ、ロシュフ」

 むりやり微笑んで仰向くとアイネはロシュフの形のいい耳を凝視した。彼の瞳をまともに見つめ返せるわけがない。

 このときロシュフがひどく何かを恐れる瞳をしていたことを、ずっと後になってアイネは思い出す。




 それ以来、ロシュフの態度は変わっていった。

 劇的に何がどう変わったというわけではないのに、二人のあいだは噛み合わなくなっていった。

 婚礼から一ヶ月も経たない内にロシュフ皇太子は不真面目な生活の先にある堕落した交遊関係の中に戻ってしまった。新聞は『やっぱりね』の論調で売り上げを伸ばしたが、どの新聞もアイネ皇太子妃には同情的で、どの新聞も『しかしまだまだお若いご夫妻の前途をいま少し大らかに見守ろうではないか』の論調で結語されていた。だったら最初から有ること無いこと書き立てずに黙って見守っていればいいのに、とアイネは思った。

 アイネが皇太子妃の公務を真面目に誠実にこなすほど、毎日は多忙になり、皇太子妃の人気は高まり、そしてロシュフとの心の距離は離れていった。

 心と心が遠ざかるのに比例してロシュフはアイネの夜を支配するようになった。

 行為に愛はなかった。アイネはただの道具だった。帝室が子を増やすための道具、そしてロシュフが快楽を得るための道具だった。彼の身体の欲望に夜通し揺さぶられつづけるだけの拷問みたいな行為が心と身体につらくてアイネが泣き出すとやっとロシュフは終わりにしてくれる。そんな晩をくりかえした。

 憎まれているのだ。

 勘付かれているのかもしれない。

 アイネがよこしまな術を修めて帝国に嫁いできたことも、他ならぬロシュフの命を奪う使命を帯びていることも。ぜんぶぜんぶ、ロシュフには気取られているのかもしれない。彼は本当は賢くて繊細な感受性を持っている人だ。だから……。

 愛がないからアイネの魔心はうずかずにすんだ。身体をつなげるほどに感情は色をなくしたように凍っていった。

 そんな新婚生活も半年が過ぎようという頃、痺れを切らしてダント・テスオロスの遣わした魔心師がアイネに接触してきた。ヴィオロンの大使館に文官として潜り込んだ雇われ魔心師は、ロシュフ皇太子の身辺情報を収集し、暗殺の機を窺っているという。

 お父上は、あなたがロシュフ皇太子に情を移してしまわれたのだろうとお考えです。一時の情よりも大局を見てほしい、とのお言葉がありました。人間一人を手にかける呵責がわからぬ父ではないゆえ、罪はその男——私めに被せてよい、とのことです。

 つまりは二人がかりで殺れ、という話である。

 あなたは魔心術で人を殺せるのか、とアイネはその魔心師に訊いた。

 魔心師は答えた。宮殿の外での暗殺ならば、銃かナイフを使ったあと〈通路術〉で姿をくらませば済むのです。ただし、居所を転々と変えるロシュフ皇太子の暗殺は意外と難しい。だからこそ、お父上は殿下に期待しておられた。

 アイネは魔心師に伝えた。

「事を起こす前には、必ず私に知らせなさい。私ならば外傷を残さずに皇太子を自然死させることが可能なのですから。決行が遅れたのは、宮殿には寝所の気配に耳を澄ませている者が必ずいるからです」

 雇われ魔心師などにロシュフを殺されてはならない。

 絶対に止めなければ。

 魔心師からロシュフを守れるのはアイネしかいない。

 アイネは今もロシュフのことが好きだった。彼に心と身体を辛い目にあわされても、彼がよその美しい女性のところへ行ってしまっても。

 好きだった。

 愛することを許されないけれど、憎むこともできなかった。

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