魔心と初夜
アイネは八ヶ月めに図書窟の書を読破し、簡単な口頭試験に合格して、その日を迎えた。
〈意識〉の氷のもとで魔心を得る日だ。
「寒い……」
ミハに連れられて転移した先は、見晴るかす限り一面の氷原だった。
仰いだ頭上には厚い舞台幕のように垂れ下がる虹色の光の波がうねうねと蠢いていた。
氷原の上に融水の川の流れが幾筋もあった。
「あれは?」
氷上に突き立てられた鉄の杭を指差して訊いた。
「通路術の標として残された杭だ。師匠の杭に次の弟子が名前を刻んで継いでゆく」
鋲靴で氷を踏んで歩き出しながらミハが言った。
その髪は氷の世界になじんで純白に変わっていた。
「果ての方には、寿命の終わりに魔心に還ろうとした魔心師の死体が凍りついたままごろごろと転がっている場所もある。見ないほうがいいだろうね」
肺まで凍りつきそうな冷気の世界をおっかなびっくりアイネはミハに着いてゆく。
この足元がぜんぶ、〈意識〉の眠る場所。
みずからを氷詰めにした〈意識〉の自殺の場所。
「誰かの靴か服から種子がこぼれて、根付いて育った木がずっとここにある」
大人の背丈ほどの白い樹表色をした木。
葉はなくて、広がる枝を覆って
ミハが鋭く先の尖ったつららを素手で手折った。
「身体に入った魔心は初めて使った瞬間から活性化し、そして使えば使うほど身体を侵して変容を起こす。僕の髪みたいにね。外見がおかしくなったり、魔痺タバコが手放せなくなったりしたら、皇太子妃ではいられなくなるだろう。だからロシュフ皇太子を殺さなくちゃならなくなったときまでは、魔心を使ってはいけないよ。練習したくなるかもしれないが、大丈夫、使うときになれば必ず自然に心は動く」
アイネは詰まった襟首の
つららの鋭利な先端を見つめ、それからミハの瞳に向き合った。
「たとえば私がミハ様を殺そうとしても」
と、アイネは少し微笑みながら言った。
「ミハ様はきっと、死なないですよね。魔心を得た私がミハ様を殺そうとしても」
ミハは賢者の青い瞳を細めて答えた。
「死なないよ。君が愛しているのは僕ではなくてロシュフ皇太子だから」
アイネは頷いた。
もったいぶらずにミハはつららを振りかぶる。真上から心臓をめがけて氷のつららがアイネを貫いた。
初めに灼熱が。
そして息を失うほどの痛みが。
アイネを襲った。ミハの穏やかな青い瞳だけを頼りにしてアイネはそこに踏みとどまった。喘いでいるうちに身体中がきゅっと冷たくなり、額の中で急に冴えた感覚がして、鼓動が一つ大きく跳ねた。
アイネは息を取り戻した。ミハに腕を支えられて、震えていた脚に力を込める。身体が熱くなってきた。生命力が芯から漲る感じがした。
「魔心師の心が今日も明日も自由であるように」
さようなら、アイネ。
ミハの青い瞳には、旅立つ弟子の未来を軽んじる色も、試すような色も、期待するような色も、何もない。
「さようなら、お師匠様」
そして気が付くと〈碧翼城〉の王女の自室にアイネは立っていた。
婚礼は盛大で絢爛だった。アイネ・ヴィオロン・ユマーティカは帝国臣民から熱烈に歓迎された。謹厳で保守的な老皇帝はともかく、気位だけが高い皇妃は国民に不人気で、唯一の皇位継承者である皇太子といえば正統な意味での期待とは別のそれ——明日はどんな醜聞が新聞を賑わすかという期待——を一身に浴びる凡愚中の凡愚であったため、皇室に新風を吹き込むヴィオロンの王女の輿入れは近年最高の歓声に満ちた皇室行事となった。
凡愚を極める皇太子ロシュフではあるが、容姿の良さは誰もが認めるところだったし、放埓な私生活に逆に人間らしさを見る者も少なからずいて、大っぴらには評価しなくても彼を何となく憎めないというかたちで愛する国民は多かったかもしれない。
その隣にならんだ皇太子妃アイネは小柄だが理知的な顔をした清楚な王女だった。国民は彼女に希望を託した。聡明そうな彼女ならば、凡愚な皇太子を上手く導いてまあまあ普通の君主くらいにはしてくれるのではないか。そして彼女ならきっと彼女によく似た聡明な皇子をたくさん産んでくれるのではないか。独身時代どんな遊び人でも大抵の男は結婚すれば家庭に落ち着くものなのだし、と。
大聖堂の祭壇でロシュフ・ロス・エ・ゴルトシャーフと一年ぶりに再会したとき、アイネは確かに幸福だった。一年前よりも彼は男らしく美しさを深めていて、記憶にあるよりも切なげな優しい瞳でアイネを見ていた。
アイネの初恋は〈虚空神〉の前でする署名によって成就し、永遠の契約となった。
ロシュフ・ロス・エ・ゴルトシャーフと初めて二人きりになれたとき、彼は長椅子の隣に座るアイネを見つめて言った。
「小さな女の子。僕はずっと君に会いたかった」
膝に置かれたアイネの手を取り上げ、もう一方の手でアイネの髪に触りながら。
空色の瞳がどうしてそんなに自分を見つめたがるのかアイネにはわからなかった。アイネより美しい女を彼はたくさん知っているはずだ。それも、ただ知っている、というだけではなく。
「僕は……」
しばらく言葉を探していたけれどどうしても見つけられなかったようで、天井あたりに彷徨わせていた視線をロシュフは少し苦しそうな表情でアイネの瞳に戻した。
アイネは無意識にロシュフの手を握り返す。
「僕にはこういうことしかできないんだ」
首を
——アイネよ。相手が最も無防備に隙を見せたときを狙うのだぞ。
「私は道具じゃない……っ」
身を引いて叫んだアイネに、ロシュフがびっくりして首をかしげる。
「どうしたの」
我に返ってアイネは頭を振る。
「何でもないの……。ねえ、ロシュフって呼んでもいい?」
「もちろん。僕は君のものだよ、アイネ。そしてアイネは僕の……」
「私もあなたのものになるわ、ロシュフ」
私はもうダント・テスオロスの娘じゃない。ロシュフ・ロス・エ・ゴルトシャーフの妻だ。
誰の道具でもなくて。
寝台に横たえられたアイネはロシュフの耳にかかる輝かしい金髪に手を差し入れた。
ただ一人の美しい夫に愛し愛される女。
——おそらく、魔心を用いた殺人は憎しみよりも愛を糧にするとき最大の力を発揮する
「アイネ?」
気が付くとアイネは寝台の柱にすがって震えていた。
空色の瞳を向けられるたびにどこまでも私はこの人を愛せてしまう気がする。でも今この胸の中には魔心がある。情動が魔心を目覚めさせ、人でいられなくなったら。もしも自分が魔心を制御できなかったら。私の中で脹れる愛が暴走したら。
〈意識〉の研究よりも人を愛した魔心師などこれまでにいたのだろうか?
アイネは自分の中の魔心が恐ろしかった。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
「大丈夫。大丈夫だよ。僕がごめんね。僕は君に身体を欲しいわけじゃないんだ」
君の身体が欲しいわけじゃない、とロシュフは言いたいのだろう。心をつなげたいのはアイネも同じだ。でも私の心はあなたを殺すかもしれないのだ、とアイネは思う。けして口には出せない。
ロシュフは少し離れているところから手だけを伸ばして優しくぽんぽんとアイネの頭をなでた。
その晩、二人は寝台の上のばらばらの場所で頭の向きも違えたまま横たわり、眠りに落ちるまで相手を見つめながら、手をつないで寝た。
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