没頭の日々

 ミハは言ったとおり洞窟群にはほとんど暮らしていなかった。

 姿を見せない間、どこへ行っているのかはわからない。

 外見と言葉から類推してミハはヴィオロンや帝国の主流をなす民族の出だと思われるが、それらの国がまだ成立していなかった時代の人間である可能性も捨てきれない。魔心師は若い姿を保っていてもけして長命とは言えない存在ではあるが……。

 ミハに限っては、魔心師の常識も当てはまらないだろう。

 滅多に会わない師匠は謎の存在のまま、アイネの修行生活は一ヶ月が過ぎようとしていた。

 その間、アイネはずっと書物を読んでいた。

 ここにある書物は全てミハの手書きの研究誌を製本したものだ。

 美しい字で理路整然と研究成果や論考が記されている。

 少し前のアイネなら、胸のどきどきが止まらないほど知識の奔流に興奮しただろうが、いまのアイネにとって図書窟の書物の列は残酷な未来への導火線でしかなかった。

 この中のどこかに、そしてこの先に、父ダント・テスオロスの望むものがある——。

 朝、簡素な寝台で目覚めると台所へ行って、井戸から汲んだ水を飲み、厚く切ったパンをそのまま小さくちぎって水で流し込む。奥の食糧貯蔵庫に食材がたっぷり保管されていたが、料理などしたことのないアイネにはどうすることもできなかった。

 昼は水だけ飲む。夜はまたパンの塊を流し込む。

 毎日がその繰り返しで過ぎていった。日も差さず、風も吹き込まない岩窟の奥、ただ独りきりの静寂の中で。




 お嬢さん、片端から読んでってるようですけれど、いったい何をお知りになりたいので?

 書架に本を取り替えにきたアイネに、書の上でとぐろを巻く眠たげな眼をした縞模様の蛇が話しかけた。

 蛇は〈意識語〉で喋っていた。こちらがわの生き物ではないのだろう。

「魔心で人を殺す方法を」

 次の書を手に取りながらアイネは言った。

 あっそう、それなら、こっちの、そっちの、あっち側の、これじゃなかったですかねえ。

 蛇はするするととぐろを解いて書架を這いのぼり、右に折れ左に折れ、向こう側に回ってつるつると書の背表紙をすべり、一冊の書を抱えて、書架の最上段から紐のように垂れ下がり降りてきた。

 アイネは受け取った重たい書をぱらぱらとめくった。

——魔心術を用いて人を害するには炎攻めや水攻め、真空による窒息など様々な二次的方法があるが、人の生気を精霊として捉えて活動を停止させる直接的方法もある。以下に詳細を記す

「そうね。これみたい」

 図解入りの物騒な内容にアイネは目を細めた。

「ありがとう。助かったわ。嫌なことは早く済ませておけば後が気楽になるもの」

 いえいえ、お礼なんていいんですよ、と躰をくねらせて蛇は笑った。ケタケタケタ。

「あなたまるで図書窟の司書みたいね。それとも洞窟群の番人?」

 それほどでもないんです。ケタケタ。あたしはただの洞窟ヘビで。

「岩窟から外にはどうしたら出られるのか知っている? どこかに外界に開く口があるのかしら」

 さて、上だったかな、下だったかな、どこかに階段があったはず。

「階段ね」

 せっかくお会いしたけれど、あたしはもうすぐ夏眠に入るんで。しばらくまたお別れですよ。

「そうなの」

 眠たげな眼を躰に擦りつけてから、蛇は岩壁の亀裂の中にするすると引っ込んでいった。

 アイネはぽつんと置かれた閲覧机に戻って書に没頭する。




——おそらく、魔心を用いた殺人は憎しみよりも愛を糧にするとき最大の力を発揮するだろう。打算よりも情念に精霊はより強く共鳴し、情念の中でも愛は、無尽蔵の持続性があるゆえに

 がたんと椅子を鳴らして立ち上がり、アイネは図書窟の出口へ行った。

 覚束ない足取りで数々の部屋を通り抜けた。

 外の空気が吸いたい。

 頭を抱えてふらふらと歩いているうちに、洞窟群の奥に迷い込み、前も後ろもわからなくなった。

 足がもつれてへたり込んだ。

 真っ暗で何も見えない。冷たい壁に頭がぶつかって自分が倒れたことに気付いた。起き上がれない。たぶん栄養が足りてない。

 もういい。

 もういい。いっそ、この隅っこで干からびて転がっていればいい。そのほうがいい。

「魔草を持って歩けと言ったよね」

 鬼火を従えてミハが見下ろしていた。

 相変わらず前触れがない。それともアイネが意識を失くしていたのか。

 痩せ細ったアイネをミハは軽々と抱き上げて碧の六角形の部屋に連れていった。

 寝台に寝かせられたときには身体の芯から生命力が活性化していた。ミハの魔心がアイネの衰弱を治癒したのだろう。

 アイネはミハの着ている船員襯衣シャツの裾をつかんだ。

「行かないで。一人にしないで」

 困ったようにミハは肩をすくめる。

「僕がいても君の抱える問題はどうにもならないが」

「一人だと何もわからない。同じことしか考えられない。一人にしないで」

 ミハはごく僅かに瞳を開いた。

「〈意識〉みたいなことを言うね」

「〈意識〉……」

「〈意識〉は〈光と闇の意識〉のままでは自分の考える以上の世界を作れなかった」

 手の甲をアイネの額に当てて体温を確かめながら、ミハは言った。

「だから〈意識〉は光を分離し、もう半分の闇の自分を封印した。残された光の世界は不完全な出来損ないだが、〈意識〉はそのいびつな不完全さに未来を賭けるしかなかったんだ」

 不完全な光の世界はこの世界のこと。

「分離しなかったらどんな世界が作られていたの?」

「それは〈光と闇の意識〉の考える限りのいろいろさ。けれど、無限に近いほどの数を作り上げたどの世界も、すべてが同じ道を辿り、同じ結末を迎える。一人の芸術家の作品がどれも似たり寄ったりになるのと同じだ。ここからは僕個人の仮説でしかないが、〈光と闇の意識〉の作る世界は、何もかもが生きながら死んでいるような世界だったのじゃないかと思う」

「ミハ様は、むかし芸術家だったの?」

 アイネは何となくそう思って尋ねた。急に睡魔が兆して、子供みたいな質問を恥ずかしいと感じる暇もなく瞼が重くなる。

 霞む視界の中、ミハの髪色は海の紺色から湖の碧色に変わっていた。

「どうだろうね」

 笑っているような「おやすみ」を聞いてアイネは眠りに落ちた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る