井戸の底の水音

 それ以来、ミハは洞窟群でアイネと一緒に暮らしてくれるようになった。

 しばらくのあいだミハが教えたのは魔心術ではなくて、お茶の淹れ方だった。

 それから卵の炒り方、腸詰めの焼き方、簡単な野菜煮込みの作り方。

 やかんでお湯を沸かすことさえできなかったアイネが、黒鼠くろねずみの葉の蒸し茶を上手に淹れられるようになった頃には、夕食後の居間の暖炉の前での師匠との語らいが一日でいちばん心のほっとする時間として定着していた。

「私が父の命令通り魔心師となって帝国に嫁げば、しばらくは時間が稼げます、でも私にロシュフ皇太子を殺す気がないとわかれば、父はすぐ他の魔心師を遣わすでしょう」

 心を病みながらもアイネが父の命令通りにミハの元へ来たのは、こうした考えからだ。

 父が一年を待たずに暴挙に出るのを抑えるため。

「君が読んだ物騒な書の内容は、僕は世の中に公開していない。自力で研究した者はいるかもしれないが、そういう者がダント・テスオロス王に雇われる確率は低いだろう。炎や水を使うだけの刺客はそれほど脅威でもない。君が刺客たちからロシュフ皇太子を守ればいい」

「守りきれるでしょうか」

「じゃあ、いっそダント・テスオロスを殺すのはどうかな」

 アイネは暖炉の炎を見つめながら眉をひそめた。

 師匠はときどき空の高みから物事を見るような無責任な物言いをすることがある。

「だけど君はロシュフ皇太子を殺したくない。二者択一だよ」

「ミハ様は、あの術を使って人殺しがなされることには反対なさらないのですか」

「やりたいことはやり、やりたくないことはやらないのが魔心師だ。魔心師は多様で自由な存在でいいんだよ。でも、国や王に雇われたとしても服従はしないことが鉄則だ。まあ、これは僕が広めた鉄則なんだけどさ」

 赤々とした暖炉の火影を浴び、揺り椅子で寛いだミハは、膝に載せた片足の上にさらに肘をおいて頬杖をつきながら言った。

「君は魔心師には向いてないかもね。誰かに命じられて魔心師になるような人間は、魔心師には向いてない」

「でも、私は魔心師にならないと……」

 ロシュフ皇太子を守れない。

 かといって帝国にダント・テスオロスの狂った計画を漏らしてしまえば、ヴィオロンが窮地に立たされることになる。

「時代は放っておいても変わっていくものだ。万象教の時代もあとそれほど長くないとは思うよ」

 陰影のついたミハの横顔に、憂慮やアイネの境遇への同情は欠片もない。

 振る舞いは人間的だし言葉の機微も通じるけれど、師匠が本当は何を考えているのかはわからない。

 知りたいと思うけれど、思って手を伸ばしただけではそこには届かない。

 届いたとしても、触ることはできない。触れ合うために必要なものをアイネは持っていない。存在の時空が違う気がする。

 父やミハが〈意識〉に惹かれてその全てを解き明かしたいと思う気持ちはこんなふうなのかもしれない。

 視線に気付かれたアイネは小さく首を傾げて言った。

「赤毛って、ミハ様でも滑稽に見えますね」




 台所の隅の井戸の前でアイネは意を決した。

 手の中に握りしめた固い硝子は体温でぬるくなっている。

 それは小石大の硝子の中にアイネの血液を閉じ込めたものだ。父ダント・テスオロスがアイネの旅立ちの前に作らせた。

 通路術の出口のしるべになるものだ。

 ミハは何を考えているかわからない。

 もともと彼は謎の向こうの人物だ。

 ダント・テスオロスは〈意識〉の信仰者だが、ミハの信奉者ではなかった。

『君は魔心師には向いてないかもね』

 もしもアイネの適性をミハが最終的に認めなかったら。

 もしもこのまま放り出されてしまったら。

『アイネよ。お前に具わる感性は母の血だが、お前の賢さは父の血だぞ。お前は弟たちよりも十倍賢い女だ』

 深い深い井戸の底で小石の落ちる水音がした。

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