弟子入りの日

 痩せやつれて青白い顔色をした娘が現れたことにミハはさぞかし驚いただろう。

 本日この場所に来るのは曲がりなりにもヴィオロンの王女であるはずだったからだ。

 しかし人間違ひとまちがいが起きたわけではない。

 そこに来たのは間違いなく、初恋の相手を殺せと言われ、さらにその手段として人の心を永遠に手放すことを命じられたヴィオロンの王女だった。

 初恋に浮かれた人間も、人殺しを命じられた人間も、どのみち眠れず食事は喉を通らない。

 すっかり病的な面相になってアイネは修行に旅立つ日を迎えた。王女不在は悪い風邪を引き込んだことにして誤魔化される手筈になっていたが、じっさい彼女は病んでいた。心が。

 旅立つ日は到着の日でもあった。荷物を手にとった瞬間にアイネの身体は別空間へと転移していたからだ。

「あなたがミハ?」

 術の前触れである精霊のどんちゃん騒ぎもなく、歌劇舞台の背景のように突然くるりと入れ替わった景色に平衡感覚を失ってよろけながらアイネは言った。

 五歩くらい先に年若い男が立っていた。

 男はすっぽり被る膝丈の農夫の作業着に、鞣し革の脚衣という素朴な格好をしていた。

 岩盤の床を踏みしめる足元は裸足だ。

「そう、僕がミハだ」

 さらさらとした短い髪は、どんな染め粉を使っているのか、美しい瑠璃色だった。

 その瑠璃色よりも少し薄いくらいの青い瞳は確かに、真理に澄みきった賢者の瞳だった。

「私はヴィオロンのユマーティカ家のアイネと申します」

 のろのろと荷物を置いてアイネはのろのろとお辞儀をした。

「僕はただのミハ」

「よろしくお願いします、ミハ様」

「ミハ様はやめてくれないかな」

「わかりました。こちらは、お師匠様の住まいでしょうか」

「お師匠様はもっと困るな」

 アイネは口を噤んでしばらくぼんやりと視線を彷徨わせた。面倒なことを言われると頭が対応できないくらいにアイネの精神力は甚だしく低下している。

 この場所はどこかの岩窟の奥のようだった。

 瑠璃色のごつごつした岩肌がまるい天蓋となって、がらんどうの一室を形成している。

 ひんやりした空気は熟成酒の貯蔵に向いていそうだ。

「私を城から連れてきたのはミハ様の魔心術ですか」

「そうだよ」

「でも人間一人を運ぶのはかなり大掛かりな術のはずですのに、精霊が騒いでいません」

「いや、そんなに大した術でもないね。そいつらと協力して空間の理を少しいじるだけだから」

「精霊と対話を? 堕天使となら、少しは会話めいたことも成り立ちますが、精霊と協力する魔心師など聞いたことがありません」

 魔心師は、魔心あるいは魔草またはその両方を使ってそいつらの気分を上げたり下げたりし、〈意識語〉で現象に方向性を与える。いわば炎に薪をくべたりふいごで酸素を送ったり灰をかけたりする要領で現象を操作する。点火と制御がせいぜいであって、炎そのものと意思疎通するなどありえないことだ。

「僕にはできる。ただ、魔心を得たからといって誰にでもできるようになるわけではない」

 ミハはアイネに背を向けて歩きだした。

「僕は君が魔心を得るところまでは導けるが、君がどんな魔心師になるかは君の心のありよう次第だ」

 アイネは一拍遅れてふたたび荷物を取った。近くに従僕や小間使いはいないのかしらと視線を巡らすが、気配がない。

 重い鞄を持ってミハの後を着いていきながらアイネは尋ねた。

「ミハ様。私の荷物はどちらに預ければよいでしょう」

 首だけで振り返ったミハが怪訝そうにアイネを見やる。

「ここには僕の他には誰もいないよ」

 瑠璃色の一室を出ると、そこはまた別の岩窟だった。きらきらした白い岩壁に囲まれた四角い部屋。やはり何も置かれていない殺風景な部屋だ。

 アイネは眉をひそめて呟いた。

「そんなまさか」

 謎しかない若い男と二人きりだなんて。

 いくら本当は若くなくても、男には違いない。そしてアイネは結婚を控えた若い娘だ。

「僕はほとんどここにはいないから、君は気兼ねなく自由にしていていいよ。それから、基本的な道徳観や価値観は君たちと同じものを持っているから、心配しなくてもいい……いや、価値観はちょっと異なるかな」

「他に弟子は」

「弟子は一度も取ったことがないんだ」

 塩の匂いのする白い部屋をミハは通り抜けた。

「本当は嫌だったんだけど、ヴィオロンの碧の湖には恩があるから、仕方がないね」

 その次の岩窟は、碧色の透きとおった石の壁が六角形に削られた部屋で、簡素な木の寝台と書物机、衣装箪笥が置いてある。

「いちおう君の部屋だが、洞窟群の中はどこでも好きに使って過ごしていい。ただし洞窟群は広大で入り組んでいるのであんまり奥に探検すると戻ってこられないかも。魔草は持っているかい。迷子になって困ったら洞窟に棲むそいつらを適当に騒がせれば、僕が迎えにいく。どこかの隅で干からびて転がっていられたら困るからね」

 その先には、黄色い部屋、紫色の台所、岩肌に緑の苔がむして小川が流れている部屋、暖炉の焚かれた居間風の部屋、——そして巨大な図書窟。

 前方が円形、後方が四角形の鍵穴の形にくりぬかれた図書窟の、遥かな天井にとどく書架には最上段までびっしりと革表紙の書がならぶ。岩窟の岩そのものが淡く発光しているから図書窟は全体が昼間のように明るかった。

 膨大な知識の岩窟に圧倒されてぼんやりしながら、アイネは言った。

「父の計画はご存知なのですか」

 書架に立てかけられた梯子をがたがたと揺らしてミハは強度を確かめた。梯子も相当古いものなのだろう。

「僕は人を殺すための魔心術なんて教える気はないよ」

 アイネはぼんやりと瞼をゆっくり閉じて開いた。

 だったら何のために私は。

「でも魔心術で人を殺すことは可能だ。この図書窟には僕の知る限りの魔心術のすべての知識がある。僕の弟子になった君は、この図書窟にある知識をぜんぶ頭の中におさめる義務と権利を持っている」

 ミハは淡々と言った。

 彼の賢者の瞳には、若年のアイネを軽んじる色も、試すような色も、期待するような色も、何もない。

 彼は初めての弟子となるアイネに何の興味も持っていないようだった。

「この図書窟の本を一冊残らず読み終えたら、君を〈意識〉のもとに連れていく。修行を許された期限が短いのだから、修了条件はこれくらい明快なほうがいいよね」

 期限は一年弱。

 アイネは短い時間と大量の知識の前で途方に暮れながらぼんやりゆっくりと瞬いた。

 ミハの髪の色が、いつのまにかアイネと同じ銀色に変わっていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る