初恋と雷鳴
それからというものアイネには、心がざわざわして眠れない夜がつづいた。
新しい魔心術の知識のせいではなくて。
目を閉じると浮かんでくるのはロシュフ・ロス・エ・ゴルトシャーフの顔と声だった。
明日や明後日の用事や勉強のことは頭の隅に追いやられて、気が付くともっと未来のことばかり考えている。
彼と一緒に暮らしていけるなら、毎日がとても楽しいだろう。そうなったら魔心術の勉強なんて一切やめてしまってもいい。
だって私は元々そういう人間になるために生まれたのだから。
ヴィオロンの王女という立場は、どこかの国の王族の誰かと結婚をして、子供をたくさん作って、優雅な微笑みを絶やさず生きることを定められたものだ。
このヴィオロンでアイネが唯一無二の主役でいられたのはまだ赤ん坊の頃、弟王子が誕生するまでの一年間だけだった。たった一年でアイネは謂わば、弟王子のための有効な駒の一つに格下げになったのだ。同じ王の子供なのに弟王子と張り合うことが許されない現実を、物心ついた頃からアイネはずっと意識して生きてきた。
けれども一つだけ、アイネが父のお気に入りでいられる方法があった。アイネには生まれつき、精霊や天使を視る感性が備わっていたのだ。父ダント・テスオロスが狂おしいほどに望みながらどうしても得られなかったその才能。おそらくアイネのそれは母から遺伝したものだ。ガッラの王女だった母は、ごくごく弱いものだが不思議な体験をする感性を持っていたという。意味をなさない精霊のささやきが聴こえるとか、人の死期が何となくわかるとか。それは普通より少し勘が鋭いというくらいの能力だったが、ダント・テスオロスは母の打ち明けたそんな話に恋をして彼女を妻に迎えた。その母は三人目の子供である下の王子を産んですぐ、自分自身の死期を正確に予言して亡くなった。
王子二人にはない娘アイネの才能をダント・テスオロスは愛した。
ダント・テスオロスはアイネを彼の知り得た魔心術の知識によって教育し、すでにアイネは魔心師を名乗ってもいいくらいの実力を身に付けている。アイネのように魔心を得ていない魔心師のほうが、世には多いのだ。
魔心術は父の最愛の子供でいるための手段だった。
魔心術の勉強が好きかと問われれば、好きだった。科学や音楽の勉強と同じように。知識の獲得と実践はアイネの自尊心を満足させた。
魔心術にとくべつ思い入れがあるかと問われれば、アイネは即答できない。
ただ、万象教の〈神〉の概念と教えよりは、魔心師による〈意識〉の研究のほうが、現代人として受け入れやすいような気がする、という程度だ。
父の視界の主役でいるためには魔心術が必要だが、ロシュフ・ロス・エ・ゴルトシャーフがアイネだけのものになるなら、もう魔心術はいらない。
ロシュフ・ロス・エ・ゴルトシャーフは女性関係の軽薄な噂が絶えない人物なのだと聞かされてもいたが、正式な地位を望めるアイネにとっては、そんなことはどうでもよかった。
私はもう主役でさえなくてもいい。あのひとを愛することが許されるなら。
——未来に心を引っ張られているみたい
昼も夜も地に足がつかない感覚の中にいたアイネが、父の籠る研究部屋に呼び出されたのは、〈授剣式〉から一ヶ月後のことだった。
「父上。最近はシュナウツの姿を見かけないようですけれど」
アイネは重大な用件を予感してどぎまぎしながら、わざとどうでもいい話を口にしていた。
「彼奴は
「そうですか。それはようございました」
上の空でアイネは相槌を打つ。
「そもそも彼奴の卑屈な性根にはいいかげん我慢がならなんだ。考えてもみよ。彼奴の老体を見よ。彼奴は魔心を得るためにどれだけの時間を費やしたのだ? お前のように才能のあるものは数年で辿りつくところに、彼奴は老年までかかったわけだ」
精霊の一匹も視る力のないダント・テスオロスが何をきゃんきゃん吠えておるのぞ、とシュナウツ老人なら言うだろう。
「ところでアイネよ。帝国から正式に打診が来た。お前と皇太子との婚姻だ」
「はい」
書物や紙束の塔に埋もれた机とダント・テスオロスはほぼ一体化している。巨大な机に収まった巨躯の王は異界の裁判官のようにアイネを威圧する。
書付を走らせる手元から一度もおもてを上げずに王は唸った。
「皇太子をどう思う」
アイネは小さく咳払いしてから答えた。
「巷に言われるほど頭が悪いようには見えませんでした」
そして彼は耳の形がきれいだった。
アイネは相手の瞳を見つづけながら話すのが好きではないので、だいたい左右どちらかの耳を見つめて会話をする癖があった。だからとてもよく覚えている。
美しい金髪に飾られ日差しを赤く透かした彼のきれいな耳が、今このときも脳裏にちらついて、胸がどきどきしてきた。
「放埓の噂は存じ上げていますが、ヴィオロンの国益のためならば私に異存はありません」
「すでに返事は是と返してある」
思わずアイネは〈神〉に感謝したくなった。
「アイネよ。お前は一年後に帝国に嫁ぐ。婚礼を挙げたらすぐに皇太子を殺せ」
アイネは首を傾げる。
「父上。いま何と仰られたのですか」
「帝国に嫁いで皇太子を殺すのだ。これはヴィオロンの国益などという瑣末なものではない。全人類の前途を開くための英雄的行為だぞ」
「父上。仰られている意味がよくわからないのですが」
山が動いた。
おもてを上げたダント・テスオロスは爛々と光る眼でアイネを見下ろし、両手を机に叩き付けた。
書物と紙束の群塔は崩れそうに揺らぎ、ずずずとずれて歪んだけれど、まだ崩れない。
「お前にわからぬわけがなかろう。帝国は万象教の最大の庇護者だ。帝国の安泰であるかぎり、この世に邪教の教えは蔓延るばかり。帝室の血を絶やす以外に、世界に真理を広める方策はない!」
アイネは父がとうとう気を狂わせたのだと思った。
「父上。しかし私はこのとおり非力な女です。健やかなあの人をこの手で暗殺するなど、とうてい無理です」
「何を言っておるのだアイネよ。お前はいつの間に馬鹿になったのだ? 手など使わぬ。帝国は暗殺者に慣れている。刃も毒も奴らには届かず阻まれよう。だからお前を遣わすのだ、アイネよ。魔心術で皇太子を殺れ」
アイネは悲鳴と変わらぬ声で叫んだ。
「父上。私は人を殺める魔心術など知りません!」
「それはお前が魔心を得ていないからだ。アイネよ。魔心を得よ。ミハの所へゆけ」
「ミハ?」
ミハは伝説の魔心師だ。住処も姿形も知られておらず、現存さえも疑わしい。数冊の古典書に名前を残しているだけの存在にも関わらず、何故か伝聞の逸話には事欠かないという謎に包まれた魔心師。
「我がヴィオロンはミハに大きな貸しがある。ゆえにヴィオロンの王は、いつでも望むときにミハの弟子として迎えられる権利を持っている。それは湖の盟約と呼ばれてきた」
「聞いたこともありません、父上——」
「歴代の王は感性をそなえず、ミハの智慧の重大性を認識することもなく、盟約は埃まみれの隅に追いやられていた。だが余がそれを掘り起こした。余にはお前がいる。今が盟約の行使のときだ」
山が立った。
巨躯の胸を広げ、黒々とした髪を乱し、ダント・テスオロスは雷鳴の割れるごとき声で言い渡す。
「ミハの元へゆけ、アイネよ! 行ってミハの知恵のすべてを受け継ぐがよい! 我が愛する娘よ、さあ〈意識〉復活の日に向けて支度をするのだ!」
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