第三章 いつかの名はアイネ
蜜蜂が舞う湖畔の出会い
1
賓客がこんなにも集まっている日を選んで、蜜蜂は巣の引越しをはじめたみたいだった。昆虫学者が分蜂と呼んでいる蜜蜂の習性だ。花ざかりの湖畔庭園には香草酒を手にした客人たちの話し声と低音の羽音が入り混じってぶんぶんと煩くやっていた。
今日の主役は弟王子だ。アイネはなるべく人の目につかない茂みの陰や花棚の下を行ったり来たりしながら無為な時間が過ぎるのを待っていた。
一歳下の弟王子のために碧翼城で行われた〈剣授式〉は、国を跨いで王族同士の年長者が成人を認めた若年者に友情の剣を授ける儀式だ。王室間の友好関係を高めるため伝統的に行なわれてきたもので、授受の組み合わせは同盟の強化にも効果を持つ。
弟に剣を授けたのは〈銀の烏のガッラ〉の国王だった。儀式を終えた彼らはいま、高原バラの垣根の近くでガッラ国王が連れてきた写真技師に撮影をさせている。
王都の宮殿と違ってめったに舞踏会や晩餐会など面倒な行事がないのが碧翼城のいいところなのだが、父王ダント・テスオロスがこの城に籠って以来は逆に行事のほうが移動してくる有様になった。まるで蜂の分蜂みたいだ。
ぶんぶん蜂の一匹らしい廷臣がすれちがいざま耳元で囁いた。あれがゴルトシャーフの皇太子ロシュフ・ロス・エ・ゴルトシャーフ。お父上はあなたの嫁ぎ先として彼を候補に考えておられます。婦人受けする見目のよさと健康な身体だけが取り柄の皇子です。彼以外の兄弟はみな夭折したので——。
アイネは花壇の香草を弄ぶふりで廷臣の言葉をやりすごす。
まだ正式な決定もなされていないのに、余計な情報を聞いてしまったら話しづらくなるじゃないか。わざわざ彼と話すつもりもないけれど。
今の廷臣はさいきん父から宰相に任じられた男だったかしら。
それでも十六歳になったばかりのアイネは好奇心を抑えられずにゴルトシャーフの皇太子が歓談している姿をちらちらと窺う。
日差しの下に輝く金髪ですぐ居所がわかる。二十歳そこそこの帝国皇太子は二十歳そこそこの帝国皇太子に必要な容姿の条件を全身に体現していた。整った顔立ちの魅力をさらに引き立てるのは屈託のない柔らかな笑顔で、周りの貴婦人たちも彼と一緒にいるだけで幸せそうだった。
確かに見た目はいいみたい。でも本当にそれだけみたい。
黄色く枯れかけた香草の葉っぱを土に落として、青々としたところを摘みとる。ふだん庭園を歩くときの習慣につい没頭してしまっていたら、後ろから声をかけられた。
「ヴィオロンの小さな女の子」
びっくりしてアイネは振り返った。
そこにはロシュフ・ロス・エ・ゴルトシャーフがいた。
「ごめんね。邪魔をしたかな。さっきから一人ぼっちで何をしているの?」
ロシュフは人好きのする爽やかな笑みにイタズラ風味を加えながら、花壇を覗き込んだ。
「午後のお茶用の葉っぱを摘んでいました」
両手いっぱいに深緑色の檸檬膏の葉っぱが載っている状態では、ごまかしようもない。
高原の空とまったく同じ色をしたロシュフの瞳がおもしろそうに輝いた。
「それって〈魔心師〉が飲むお茶?」
ヴィオロンのダント・テスオロス王が魔心師を何人も抱えて研究に籠っているのは周知のことだ。
「いいえ。普通の香草茶です。この辺りの村人はこういうお茶をよく飲んでいます。みんな普通の人間ですけど」
「僕のところの宮殿でも東華帝国から取り寄せたおかしな名前のお茶がたまに出てくるよ。鳥のとさかの粉が混じってるやつとか」
珍奇な味と素材の不気味さの感覚をにわかに甦らせたていでロシュフが顰めた顔に舌を出す。
アイネは小さく笑った。
見せてくれる? と言ってロシュフはアイネの摘んだ葉っぱを一枚手にとった。
「檸檬膏の葉っぱはお茶に煮出す前に、ぱんと叩くのです。そうすると香りが立つの」
残りの葉っぱを手巾にくるんで置いてからアイネは、ちょうどいい強さで手のひらと手のひらを叩いてみせた。
同じようにしてロシュフが檸檬膏の葉っぱを叩く。
鼻先に葉を近付けて彼は神妙な顔付きをした。
「薬臭い」
「檸檬膏のお茶は気持ちが落ち着きます」
「気持ちが落ち着きたい?」
『気持ちを落ち着けたい?』が正しい文法じゃないかしらとアイネは思った。
「心がざわざわして眠れない時ってあるでしょう?」
「うん、ある。君みたいな小さな女の子でも、そんなことあるの?」
「新しい知識にどきどきした時とか」
ロシュフはのけぞるみたいに膝を折って空色の瞳をぐるっと回した。
「僕はいつも本の書いていることがわからなくてどきどきするよ」
『本に書いてあることがわからなくて』かしら。
「小さな女の子は特別なひとなんだね」
私は何も特別じゃないけれど、とアイネは戸惑いの瞳を返す。
その瞳をしばらくじいっと見つめてから、ロシュフが言った。
「僕は君みたいな子には初めて会った」
ロシュフは突然真面目な顔で跪くと、アイネの手をとって恭しく接吻した。
見上げてくる空色の瞳の中に、心からの優しい親しみがあった。
すんなり優雅に立つと、ロシュフは気さくな微笑みを残してアイネの元を離れた。
「小さな女の子、またね」
アイネはちゃんとした挨拶を返せないまま、彼の後姿が遠ざかるのを見ていた。
すぐに別の客人が彼を掴まえる。楽しそうに少しだけ話し込んで別れると、すぐまた別の客人が彼を掴まえにくる。ロシュフ皇太子という花には、ぶんぶんと人が集まってくる。
貴婦人たちに囲まれて、誰にでも同じような優しくて明るい顔を向けて、蜂の羽音の中で笑いさざめきの輪を生んでいる。
あの人は、見た目がよくて、優しくて明るくて、でもただそれだけ。
小さなアイネよりも賢く物を知っているようには見えない。
それだけ?
元々かがんでいた花壇のほうに向き直り、檸檬膏の葉っぱの緑を見つめたとき、アイネは眉根を寄せていた。
栄華と流行の中心地である帝国帝都で日々を暮らしているひとに、私は何の話をしていたのかしら。田舎の野辺に群生する香草の話なんて、あのひとがしたい話じゃないはず。
でも私が自然に話せる話題と言ったらそんな事ばかりかもしれない。香草とか、魔草とか。
——彼以外の兄弟はみな夭折したので、残ったのは無能で遊び好きな彼だけということに
アイネはますます眉をひそめた。
皆、本当に気が付いていないのだろうか?
誰にでもできることじゃなかった。
私にとって余計な話を一つもせずに、笑わせてくれさえした彼の、いったいどこが無能だというのだろう。
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