半分の心
「大丈夫大丈夫。俺は医者じゃないが、解剖なら経験がある」
用意された蝋燭の炎でナイフの刃を入念に炙りながらルシオは言った。「ま、解体とも言うが」
撃たれた司祭の男は朦朧と浅い息をくりかえしている。
兄弟姉妹を手術用意のために指揮していたトリ・セルノーが戻ってきて、男の手を握った。
「ヴィルム」
「入った弾は肩と脇腹の二発。踊り狂ってた同志アマデオが邪魔で撃ち手が限られてたのが幸いだ。俺は弾を取り出す。あんたは糸で傷口を縫う。いいな?」
「軽症の縫合は経験済みです」
「万象教も祈ってばかりで仕事になる時代じゃないからな。ただの俺の勘だがアイヴィ・ダンテスを拉致した実行犯はこのヴィルムだな?」
トリが頷くまでには躊躇いがあった。
今から彼の身体にナイフを入れようとしている人間の前では肯定しにくい情報だろう。
「はい。今はエディットと名乗っているけれど」
「死んだ誰かの名前か?」
「そうです」
冷血などという印象はまるっきり間違っていた。こいつは強すぎる感情に支配されて生きている。怒りに心を灼かれつづけて痛みの無視が常態になった拷問部屋の囚人だ。
ある者は厭世のしかめ面を、ある者は鉄壁の無表情を貼りつけて平静を保っているだけの、過去に囚われた人間の一人だ。
「アイヴィ・ダンテスは何て言ってた」
「私たちのした理不尽な要求と仕打ちに対して、ずっと怒ってらっしゃいました」
「だろうな」
何かにずっと怒っている者同士の対決はさぞかし凄絶なものだったろう。
そしてその何かというのはきっと、おそらく両者ともに、自分自身なのだ。
城内に貯蔵されていたスリャン製の純度の高い蒸留酒で傷口を洗う。絞った布巾を口に噛ませ、銃創を切り開いた。麻酔なしの処置はむしろルシオのような他人のほうが都合がいい。
二つ目の弾を床に捨てたとき、必死で涙をこぼすまいとしながらトリが言った。
「ありがとうルシオ。あなたは〈赤い鉄線〉なのに……」
「俺はただの肉屋だ」
煮沸消毒した針と糸でトリが器用に傷口を縫い閉じていった。
「下の森で警戒役の戦闘員を何人か相手しちまった。致命傷はいないと思うが、謝っておいてくれ」
トリは頷いた。
「あんたはこいつがアマデオ・キンケルを殺そうとするのを止めたかったんだろ」
ヴィルムの身代わりになって彼女は自ら死に向かおうとしたのだろう。
「どうでしょう。あれが一番に私がしたいことだったのかもしれません」
聖職者としてのトリではなく、抵抗組織に身を投じてきた女の眼をして、彼女は言った。
「あの男がこの世から消えることが、私とヴィルムの唯一の救いになるのかもしれないと思いました。でも……」
ヴィルムはそれを望まなかった。
危険は大きいにしろ〈赤い鉄線〉最高指導者を刃先に捉える千載一遇の機会だったにも関わらず、彼は彼女の攻撃につづくことをせず、最初からトリを守るために動いて銃弾の盾になりにいった。ルシオはその一部始終を見ている。
そこへ、トコトコとシュナウツがやってきて小首を傾げた。
「おぬしら。小娘は〈聖言〉のカラクリをおぬしらに話したか?」
「シュナウツさん、何の話だ」
「おぬしら坊主どもの存在意義に関わる話ぞ。ミハの弟子なら小娘が知らんはずもなし。〈聖言〉が〈神〉の言葉などというのはたわごとぞ。そも、〈神〉などこの世に存在しておらぬのだからな」
シュナウツさん、今そういう話するのやめろよ……。この半死人、さっきから割とちゃんと意識あるんだぞ喋らねえけど。
と思いながらルシオは遠くを見た。
「〈神〉を言い換えて〈天〉などと誤魔化す魔心師も多いが、あんなものは迫害を恐れて世間におもねった保身用の世界観に過ぎんのぞ。〈神〉も〈天〉も存在せんぞ。〈意識〉を封じたのは〈意識〉ぞ」
いったんシュナウツがはしゃぎだすと多弁を止められない。
犬の口は塞ぎにくい構造をしているし。
「おぬしらが聖言だの魔心の封印術だのと称しておる言葉は、〈意識〉が自らの大部分を封印するために語った呪いの言葉であり力。言わば〈光と闇の意識〉の自殺宣言ぞ」
勝ち誇るようにシュナウツは前脚を浮かせて立ち、
「言わなかったならそれは小娘のおぬしらへの温情ぞ」
その場でぐるぐると回ってから後脚で耳を掻いた。
「モニーク。魔草園から持ってきた紫の葉を一枚、患者のそばで燃しておくんぞ。そいつらがやってきて治癒力を活性化させる。邪術の恩恵など御免こうむると申したかろうが、世界の
ルシオは言われたとおりにした。
ただの肉屋には、彼らの信仰の問題を深く考える能力はないので。
魔草に火を点けながら、アイヴィが万象教徒に温情をかけた理由に思いを巡らせる。それは魔心師としてではなく、皇太子妃アイネ・ヴィオロンとしての負い目からのものだったのだろうか。
「シュナウツさん、アイヴィの心の封印を解く方法はあるんだろうな?」
シュナウツは立ち上がってぶるりと全身を震わせた。
「〈意識〉の言葉より強い力などないのぞ。まして〈意識〉が自分自身を封印するために使った言葉ぞ」
ということは、この先の人生をアイヴィはアマデオ・キンケルの花嫁人形として生きていくわけだ。
ぞっとしない話だ。
「魔心が封じられれば齢をとることができよう。案外ふつうの女の幸せこそが、小娘に似合いの人生かもしらんぞ」
雑嚢の中で堕天使の小瓶が小刻みにかたかたと動いていた。
何だろうと思い、ルシオはそれを手に取る。
「シュナウツさん」
ルシオには微かな白い靄のかたちでしか中の堕天使を捉えられない。その声を聞くこともできない。
「興奮しておるな。意味のないことを喚いておるぞな」
また何か厄介ごとが近付いているのか?
「ヴィルム、どうしたの?」
トリの静かな声に振り返ると、さっきからずっと黙って天井を見ているだけだったヴィルムが、撃たれていないほうの腕を緩慢に持ち上げて、ある一点を指差した。
氷青の眼は朦朧と
その視線を追って天井を仰いだトリが、特別な感性で彼と同じものを見出したらしく、
「彫像の中にいた堕天使たちが戻ってきたのね。聖言を響かせているあいだは何処かへ散って逃げていたけれど」
と言った。
「犬の首は天井を向かんぞな。何ぞ、ダント・テスオロスの酔狂な悪趣味に魔心師が付き合わされたという例のあれか」
ヴィルムはまだ腕を下ろしていなかった。
天井の一点に視線を定めたまま、そこにいる者を差し招くように、まっすぐ指を伸ばした。
「アイネ・ヴィオロン」
彼の呟きに、その場にいる者が皆もういちど天井を仰ぐ。
だがルシオには破壊された天井しか見えず、まして先ほどアマデオ・キンケルに連れ去られたばかりの彼女がそんなところにいるはずがない。
「本当だわ。アイネ様」
口元を覆ってトリが、天井から降りてくる何かを目で追っていた。
「おいおい」
「モニーク、堕天使の小瓶を開けるのぞ」
シュナウツが〈意識語〉で何事か命じると、小瓶から飛び出た靄がヴィルムの上に舞い、もくもくと膨らんで、輪郭は曖昧なままに一つのかたちを成した。
女だ。
でも、老婆風味じゃない。
上品に着飾って花冠をかぶった女だ。
「モニーク、〈蓄音機変種〉の花粉を焚け」
黄色い花粉を魔心師製の
堕天使を通じたシュナウツの策で可視の輪郭を持った女は、ヴィルムの手に触れるか触れないかのところでふいに方向を換え、祭壇をめがけて舞った。
「どうやら、あれは小娘の心の一部ぞ。何かの拍子に二つに割かれて身体から離れておったんぞ」
女は祭壇の近くで何か丸いものを拾い上げた。
それは水晶の珠だった。
大事な壊れものを扱う手つきで女はそれを両手につつんだ。胸の中心に埋めるようにして握りしめると、ぱりん、とかぼそい音をたてて水晶は砕けた。破片は白い靄の胸の奥できらきらと輝いて、溶けていった。
白い靄の女は崩折れた。
膝を折って俯く女の横顔は、綿菓子を彫った程度の曖昧なものなのに、誰の目にも彼女は泣いているように見えた。
——ああ。ロシュフ。あなたはそんなにも……
その声がルシオにも聴こえたのは、シュナウツの育てた魔草の効果だ。
ジリジリという雑音混じりで、
「だが俺の知ってるアイヴィさんは、あんなふうに可憐にめそめそ泣いたりしねえけど」
当惑の色の濃いルシオの台詞に、彼女が反応した。
——私はアイネ・ヴィオロン
毅然と顔を上げてアイネ・ヴィオロンの〈心〉は言った。
——私はアイヴィ・ダンテスの過去。私はアイヴィ・ダンテスの半分
その白い靄の顔には少しも世を拗ねて歪んだところがない。
——ルシオ・モニーク。頼みがあります
純粋な力強さを秘めてまっすぐルシオを見つめた。
——私はこれからアイヴィ・ダンテスの身体を追い、その中に戻って、私のもう半分の心との融合と覚醒を試みます。私という意識が目覚めるためにどれくらいの時間が必要かはわからない。一晩、一ヶ月、いいえ何年もかかるかも知れません
白い靄の彼女はすと立ち上がる。
軽やかそうな装束の裾を優雅にひるがえし、礼拝堂を歩みはじめた。
——明日、あさって、あるいは十年後、三十年後でも。私がアマデオ・キンケルの元で、あなたにだけわかる方法で合図をしたら、迎えに来なさい
私が合図をしたら迎えに来るんじゃ。
二重写しの既視感にルシオは目を細めた。
「俺は肉屋で、便利屋じゃねえんだって。……前言撤回だよ、あんたやっぱり俺の知ってるあいつだな」
理不尽な要求を当然のように投げてくるところは、アイヴィもアイネも変わらない。
「いかにも小娘の考える無謀ぞ。覚醒なぞ無理に決まっておるぞなもし」
〈意識〉を復活させる術を魔心師たちはまだ見出していないように、封印された魔心の覚醒もまた不可能。
少なくとも、未知数の賭けだろう。
だが、アイヴィ・ダンテスの執念深さと諦めの悪さを、ルシオは知っている。
——私は必ず復活して、ミハに会わなければならないのです。ミハの思想はこの世界にいつか害をなすでしょう
だからルシオは、やれやれと頭を掻きながら、頷いた。
このご近所さんとの付き合い方は大体いつも、こんなふうだ。
アイヴィの意識があろうとなかろうと〈赤い鉄線〉の中枢からの救出は無理に近い至難の技だ。
未知数の賭けだ。
初心者のツキなどとっくに使いきった先の人生をルシオは生きている。
命運の途絶える機会なら五万とあった。だというのにルシオは、じきに青年とは強弁できなくなるほどの齢までのうのうと生き延びてきた。
しぶとく生きて運と不運の帳尻を合わすことにかけては、自分も結構しつこいほうなのかもしれなかった。
「ああ、わかったよ」
——待っているわ、お肉屋さん
まつろう堕天使をふりほどきながら、アイネ・ヴィオロンは礼拝堂を舞い昇る。
最後には不可視の身軽な心となって、天窓の向こうの夜空へと消えていった。
「いや、あんた、うちの店で肉の一切れも買ったことねえけどな」
礼拝堂にはまだ、ジリジリという雑音混じりに、いくつもの声や音楽や氷塊の軋む音が、響きあい、ぶつかりあって聞こえていた。
〈蓄音機変種〉の魔草に躍らされた
「モニーク、燻匣をしまえ。煩うてかなわんぞな」
ジリジリという雑音にところどころ途切れ、劣化した音の中に、蜜蜂の羽音や、赤ん坊の泣き声や、ためらいがちの質問が聞こえる。皿の割れる音、〈意識語〉、婚礼の鐘の音、若い男の呻き声、深い井戸の底に小石の落ちた音。娘を褒める父の声。酷薄に身勝手な愛を囁く男の声。女の悲鳴。それは断片的に、刹那的に、執念深く残された、ひとつらなりの魂の記録。彼女の心が見つづけていた悔恨と憧憬の夢だ。
シュナウツはしかし、〈下げ草〉を焚いてそいつらを眠らせろとは言わなかった。
そいつらは魔草の酔いの余韻の残るかぎり、夜が明けるまで鳴らしつづけた。
アイネ・ヴィオロンが辿った数奇な人生の記憶を。
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