封印

 碧翼城の名の意味は湖畔に建つ城から湖を眺めたときにわかるという伝えだが、今は異国の城をのんびり観光している暇がない。

 城内はもう何十年も客人を迎えた様子がなく、現役の城であることすら信じがたいほど荒れ放題となっていた。

「ダント・テスオロスにはむしろ似合いのころもぞ」

 かちかちかちかちと爪音をたてながらシュナウツが罅割れた大廊下を進んでゆく。

 礼拝堂の扉の隙間から、祈りの声明が漏れ響いていた。

 帝国再興を企む兄弟姉妹たちは、彼らを迫害したダント・テスオロス王の膝元で、呑気に就寝時間の礼拝を行なっているのか?

 扉の隙間からルシオは人質を抱えたまま礼拝堂へ滑り込んだ。

 礼拝堂は荒れているというよりも、無残に壊れていた。天井と壁が崩落し、石の構造が剥き出しで、砕けた天窓から白い綿雪が舞い降りてくる。

 だが兄弟姉妹たちは整然と立ち、祭壇に向かって祈りの声を重ねていた。

 堂々と尻尾を振ってシュナウツは真ん中を歩いた。

 犬に気付いた兄弟姉妹が、小さな生き物への慈愛からか自然に道を開いてゆく。ルシオはその道を進んでいったが、礼拝への異様な集中状態にある兄弟姉妹たちは人質を見ても、今だけは静かにしろという顔で睨んでくるだけだった。よほど邪魔をされたくないらしい。

「おもしろい。おもしろいものを見せよるぞ! 万象教ら、おぬしらの謡いがどういうものか知っておるのか? 〈意識〉を封じたのは〈神〉か? 〈神〉とは何ぞ! ああ滑稽ぞ、滑稽ぞ」

 礼拝堂の最奥に、かつての内装の残骸らしき瓦礫が積み上げられ、てっぺんに緋色の布が一枚、敷かれていた。

 申し訳程度に飾られた瓦礫の祭壇に、金髪を短く刈った司祭の女が深く項垂れて座っている。

 司祭の女は膝に灰色の髪の女の首を抱いている。

 瞼を閉じて祭壇に身を横たえているのはアイヴィ・ダンテスだ。

「シュナウツさん、こいつらは何を?」

 祭壇の裏側にまわってルシオは瓦礫に足をかけた。

「こやつらは〈神〉の聖言でアイヴィ・ダンテスの魔心と一体の心を永久に封じて眠らせようとしておる。もうすぐ終わる。あと一節、二節で終わるんぞ。聖言を完唱すればこの女は一生、木偶人形ぞ。わしは愉快ぞなもし」

「それを早く言ってくれ」

 聖言をやめさせよう。

「魔心の封印が実際に行なわれるのを見るのは初めてぞ! わしは見たいんぞ!」

 妙にはしゃいでいる老魔心師は無視し、ルシオは人質を脅しつけて声を上げさせた。

「た、助けてくれ、みんな、儀式をやめてくれ、いったんやめろ……!」

 しかし誰一人、声明を途切らせる者がない。

「聖職者が、仲間の命にも知らん顔かよ」

 ルシオは使い道のなくなった人質を放した。男は城内に寄せ集まる抵抗組織の仲間を呼びにいくだろうが、仕方がない。どのみち時間がない。

 しかし——。

 戦闘力のなさそうな聖職者たちとはいえ、これだけの人数が相手だと打つ手もない。

 いや一つだけある。

 この状況で、万象教の彼らがもっとも困ることをやればいい。

「〈赤い鉄線〉としては、みすみすアイネ・ヴィオロンを帝国再興の御旗とされるわけにもいかねえからな」

 奪還できないなら、死んでもらうのが国益だ。

 ナイフをくるくると弄んで逆手に持ち替え、ルシオは横たわる女の心臓に狙いをつけた。

 やいばごしに、真正面で聖言を唱える司祭服の男の眼を捉えた。

 それは、見られているだけでこっちの背筋の凍りそうな冷たい眼をした司祭だった。

 人間、あそこまで表情を殺した顔付きができるものだろうか。

 本当にあれが聖職者だろうか。

 この世の何も信じていない眼をしたあの男が?

 一瞬の視線のやりとりのうちに駆け引きがあり、司祭とルシオのどちらも一歩と退かないまま刃の先が心臓を突く。

「アイネ様」

 司祭の女の声が刃を止めた。

 アイヴィ・ダンテスの瞼が震えて薄く開かれようとしていた。

「ルシオか」

 力ない囁き声でアイヴィ・ダンテスが言った。「どうしてお前が」

 とっさに複雑な事情を答えかねて、ルシオは防寒上着に手を入れた。

 アイヴィ・ダンテスに関わる大事な水晶珠をひっぱり出す。

「忘れ物があったからな。これやっぱり、あんたに必要なんじゃねえかと思って」

 ルシオはそれをアイヴィの痩せた手でくるんでしっかりと握らせた。

 彼女はその土産が気に入らないかもしれないが、怒りが魔心を滾らせるというなら今はむしろ燃料となるものが必要なはずだ。

「こういうときは魔痺タバコを持ってくるもんじゃ。つくづく気が利かん肉屋じゃ」

「ああ、魔痺タバコも持ってきてるぞ」

 だが、アイヴィはもう何もかも手遅れであるように瞼を閉じた。

「じゃあの」

 ルシオは眉をひそめる。

「じゃあの、って、おい……」

 声明が一斉にやむ。

 ルシオははっとして顔を上げた。

 祭壇に一歩近付いた真正面の男が、冷酷な氷青の眼でアイネ・ヴィオロンを見下ろしながら終わりの言葉を詠じた。


 ——ここに、意識は永遠に凍りつく。我の祈りの正しきゆえに。過ちの過ちなるゆえに。始まりは終わり。終わりは始まり。我が望み、今ぞ叶わん。


 瓦礫の山を水晶の珠が転がり落ちた。

「さらばぞ、小娘。ほお、老境にいいものを見させてもらったわいぞ!」

 魔心の封印が完遂された?

 じゃあ、アイヴィは二度と戻らない?

「目が覚めたら、こいつは何者になってるんだ?」

 そのとき、大廊下から妙に軽快な足音が聞こえてきた。

 たん、たん、たた、たん、たたたたたたたん。

 礼拝堂の扉が勢いよく開かれた。

「我が約束の花嫁を迎えに参上!」

 アマデオ・キンケル風紀長と〈赤い鉄線〉軍の強襲部隊そのなかまたち——。

 ルシオはとっさに祭壇を飛び降り、兄弟姉妹に向かって軍用鞭を振るった。

 長大な鞭に薙ぎ倒される兄弟姉妹。

 その上を間一髪かすめて、一斉に掃射された制圧銃の弾丸が礼拝堂の壁を蜂の巣にした。

 喜びに輝く目をせわしなく瞬かせながら、ツギハギとほつれだらけの燕尾服を纏ったアマデオ・キンケルが杖と帽子と身体の回転を駆使した歩みで礼拝堂を進んでくる。

「同志ルシオ! やあ、やあ、たいへん御苦労だったね!」

 何食わぬ顔で敬礼したルシオに、アマデオ・キンケルは労いの笑顔を向けてその肩を叩いた。

「在ヴィオロン領事館から連絡をもらってね」

 理由なく込み上げた不快感からルシオが黙っているうちに、アマデオ・キンケルは祭壇へ足を向ける。

「ああ、アイネ王女殿下。ああ、これが運命でないとは言わせない。私が貴女との未来を心に誓ったときから貴女は寸分もお変わりになられていないではないか。貴女がこの碧翼城の庭で鉄線テッセンの花園に遊んでいらしたあの朝から!」

 ルシオは祭壇のそばにいる司祭の男を見据えて小さく首を振った。抵抗するな。聖言の力は魔心師を制するかもしれないが、普通の人間と火器の前では無力だ。無駄な血を流すな。

 男の視線はルシオから〈赤い鉄線〉の最高指導者に移った。

 男の眼には、さっきまでなかった感情の熱が灯っていた。

 純粋な憎しみが。

 無理もなかった。万象教徒は〈赤い鉄線〉に何万もの兄弟姉妹を吊るされ、すべての刑執行の命令書は彼の名で記されてきたのだから。

 彼を見つめる男の口元に凄まじく昏く冷たい笑みが浮かんだ。

 そして呟く。

「アマデオ・キンケル……」

 司祭の女がそんな男を見てがたがたと震えはじめた。

「さあ、速やかに我が国へとお連れしよう」

 アマデオ・キンケルは痩せてやつれたアイネ・ヴィオロンを軽々と抱き上げて身を翻す。

 踊る足取りで礼拝堂を戻りはじめた。

 アイネ・ヴィオロンを奪われた司祭の女が震えながらふらふらと立って転げ落ちるように祭壇を降りた。女は司祭服の腰縄から短刀を抜き、鞘を外した。自分がするより先に恐ろしい何かが起こされるのを恐れるように女はアマデオ・キンケルをめがけた。

「トリ!」

 制圧銃が火を噴く。

 銃声がやんだあとに倒れていたのは、女を庇って無防備に立ちはだかった司祭の男だった。

 礼拝堂に女の悲鳴が響きわたる中、アマデオ・キンケルがくるりと振り返った。

「同志ルシオ! ヴィオロン政府はけしからんな。ダント・テスオロス王を隠れ蓑に帝国残党を匿うとは我が国への明確な敵対行為。それを暴いた君には最高の栄誉を与えねばなるまいが、まずは第三国にも我々の正当性を証明できる証拠が必要だね。我々はこの城には来なかった。だが君は抵抗組織によってこの城に拉致されてきたということにしよう。さしずめ、君から〈赤い鉄線〉の軍事情報を聞き出すためかな? しかし君ほどの歴戦の英雄ならば、抵抗組織の拘束から逃がれて帰国するのは容易かろう。そう、ボラジアのときのようにね。なあ、そうだね?」

 はい、同志アマデオ。どうせそんなことだろうとは思っていたであります。

「党本部でまた会おう、同志ルシオ! 君の叙勲はそのときに! 君の帰国と報告を待って我が国は、ヴィオロンに宣戦布告する」

 はい、同志アマデオ。こんど会ったときは糞食らえ。牛の腸に詰まった糞をな。

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