同志トニオ

 ボラジア戦。

 あれはマラルサ共和国首都近郊のボラジア川を挟んで起きた陣地取り戦だった。

 マラルサの軍隊は弱小で、〈赤い鉄線〉軍にとって強敵じゃなかったが、〈忘れられた羊の帝国〉在りし日の帝国軍が介入してからは五分ごぶの形勢になった。

 マラルサのすぐ向こうは帝国だ。その頃すでに〈羊の毛刈り戦争〉の後遺症で帝国の内政も外交もがたがたに崩れていたとはいえ、腐っても帝国の軍隊は〈赤い鉄線〉が喉元に近づくことを看過できない。

 ボラジアを獲ればマラルサがちる。

 そういう要衝だった。

 起伏の多い地形に深い森がまだらに広がるボラジアは、相手の地の利が優位に働く。

 偵察任務が〈赤い鉄線〉軍の生命線を握っていた。

 膠着する戦況で、トニオと俺は敵陣地に到達できる迂回路を探して偵察に出た。


『まったく困ったもんだよ。もともとの国力も違うし革命後の勢いに乗ってじゅうぶん士気の高かったはずの我が軍が、もう一ヶ月もこんな田舎で満身創痍な足止めを食らってんだ』


 窪地や沼の多い陰鬱な森を彷徨いながら、トニオはいつもの飄々とした明るい調子で言った。


『あと一歩ってところでな』

『女が相手なら、あと一歩はいちばんお楽しみなところだぜ。おお、早く帰りてえ。女のたくさんいる街に』


 密集する木々に光を遮られた森は、トニオが育った都会とは対極にある場所だっただろう。

 トニオ・キンケルはアマデオ・キンケルの甥で、俊足を売りにするそばかす顏の三等軍曹だった。(俺もそのときは三等軍曹だった。)トニオは大分だいぶ前は学生をやっていたらしいが、大学生活に挫折して身を持ち崩し、そのまま博徒になろうとしたが才能がなく、このままずっと路地裏の掃き溜めに汚物にまみれて転がっているよりは女にモテるだろうと考えて軍隊に入ってきた、とかなんとか。どこまで本当かわからないが。

 そんなトニオには個人的な秘密が一つだけあった。

 無類の女好きのわりに外地の商売女や村娘には手を出さない、妙に真面目なところのあるトニオは心の深い部分で〈万象教〉への素朴な信仰を捨てきれていなかった。

 〈赤い鉄線〉は〈万象教〉の組織を徹底して潰したが一般人の信仰心を狩ることまではできなかったから、トニオのような人間はいくらでもいただろう。

 でも最高指導者の身内という立場が、トニオにそれを軽くない秘密と感じさせたのかもしれない。

 酒に酔ったトニオが漏らした言葉で俺は何となくその心情を知った。

 部隊内には最高指導者の甥に媚びを売る者と腫物のように避ける者がいたんで、孤立とまではいかないにしろ、あいつなりにやりづらいところがあったんだろう。

 あいつが深酒するとき俺に相手をさせたのは、訳アリなあぶれ者同士で丁度いいと思ったんじゃねえかな。





——十三番目の女のくびれ、二つの胸と臍の下


 森のなかばで即席の地図を睨みながら俺はひとつの歌を頭の中で繰り返した。

 それはボラジア出身の流浪民から聞いた歌だった。俺の母親の知り合いの踊り子が口ずさんでいた歌だ。

 俺は川に沿って上流方面に森を進んだ。〈十三〉はボラジア地方に古くから住み着く先住民族の中では“始まり”や“上方”を指す数字だ。


『同志ルシオ。おまえの勘とかいうのはどれくらいの勝率だ?』

『俺は賭け事はやらんので、未知数だな』

『おいおい』


 流浪民の歌に渡河可能地点の手がかりがあるのじゃないか、などという思いつきは荒唐無稽だ。だから俺はわざわざ言わなかった。


——十三番目の女のくびれ、二つの胸と臍の下

  ボラージャユアの森のあなたとこなた

  今日と明日は会えるけど、明後日はもうさよならよ——





『まあでも同志ルシオ。初心者には運が付くっていうからな』


 杉の大樹を盾に使いながらトニオは拓けた平原をうかがった。

 南北に流れるボラジア川。その川を越えなければ敵陣の背後を突くことはできない。俺は森の地形を振り返った。地図に書き込んできた山と谷の起伏。沼。小川。窪地。……窪地。


『臍だ。そして二つの山……』


 俺はトニオを追い越して川を見渡す位置に立った。


『川のくびれ』

『ルシオ、あれを見ろよ。鹿が渡ってる。川を。鹿が。鹿だ、でけえ鹿。本物だぞ。都会にいないやつだ』

『鹿でも馬でもどうでもいい。あの水深なら渡河できる』


 川の向こうはこちらと同じ暗く深い森だった。歩哨の姿はない。


『除隊したら博徒をやれルシオ。俺が用心棒をやる』

『やらねえよ』


 俺たちは川がいびつに曲がっているところを渡って向こう岸の森に入った。森を抜けるために適した路を確保するためだ。

 途中までは上手くいった。獣道を見つけたからそれを辿ればよかった。

 あともう少しで平原に出るというところで、トニオが撃たれた。

 森を哨戒していた部隊に狙撃されたんだ。

 俺は哨戒部隊に応戦して、たぶん一人か二人は逃がしちまった。それからトニオに肩を貸して森の奥に逃げた。川にすぐ戻っても渡っている最中を狙い撃ちにされる。少なくとも夜を待つしかなかった。

 トニオは首を撃たれて死にかけていた。


『ルシオ、頼みがある』


 湿った窪地の陰に横たわったトニオは譫言うわごとみたいに言った。

 玉の汗が顔中にびっしり浮いてた。


『俺は聞いたことがある。大学で聞いたんだったかな。夜中の肝試しみたいな話の輪だったな。あのな。こういう話だ。ボラジアの森に住み着いてる流浪民の連中の儀式だ。あいつらは、行き倒れの人間を食うんだってさ』

『トニオ喋るな。傷が開いちまう』


 俺は辺りを警戒しながら言った。

 流浪民は人間を食わない。そう教えたかったが、くだらない誤解にこだわっている場合でもなかった。トニオはもう耳が遠くなっているみたいだった。


『鹿や猪みたいに人間を解体して、内臓を一個一個とりだして、心臓とか肝臓とかそれぞれ違う凝った調理法で食うんだと』


 喋るな、と俺は首をふった。

 流浪民は人間を食わない。

 北から降りてきた異教の者たちも、東から流れ着いた褐色の者たちも、クノヘンの山岳民族も、ボラジアの森に古くから棲む者たちも、街を追われた食い詰め者も、——国家と〈万象教〉の枠から外れた異端者たちはみんな纏めて流浪民と呼ばれているが、どこから来たどんな流浪民も人間を食ったりはしない。俺は知っていた。流浪民は人肉を好むなどと善良な市民たちが噂していることも、俺は昔から知っていた。育った孤児院の司祭もそういう噂を疑わなかった。

 俺の母親は流浪民の旅の一座の女だった。俺の母親はどこから流れてきたのでもない、旅の一座に生まれた生粋の流浪民だった。母親の母親も、そのまた母親も。

 ありとあらゆる異端の民の、ありとあらゆる国や民族の血が、母の中で混じっていた。俺の中にも。

 たぶん、ボラジアの森の民の血も俺のどこかには流れている。

 トニオが俺の腕を掴んで言った。


『ルシオ。ルシオ頼む。俺を解体してくれ』


 俺はトニオが錯乱したと思った。


『何を言ってんだ?』

『時間だ。時間が、時間がない。もう一ヶ月も戦ってんだ。もし後ろの補給線が寸断されたら……。早く、早く迂回路を知らせに行け』

『わかってる。日が落ちたら動く。だからそれまでお前は体力を温存してろ』


 本当は、トニオはもう動かせない。あと一時間ももたない。俺の軍装はトニオの血で重いくらいだったし、終わりが近いのは誰が見ても明らかだった。


『一人で行け、ルシオ。お前ならあいつらの包囲を抜けられる』


 行け、というトニオの指が信じがたいほどの力で俺の腕に食い込んでいた。


『でも頼む。その前に俺を殺ってくれ』


 どこも見ていない眼を宙にさまよわせてトニオは言った。


『俺は連中の汚い手でバラされたくない。食われたくないんだ。だから俺をここで解体して、ぜんぶ土の中に埋めてくれ。見つからないように、小さくして、ぜんぶ……』

『トニオ、それはできない』


 あいつは痙攣しながら泣き出していた。


『さっき、見たんだ。ぼろっちい人形が落ちてた。連中はまだ森に住んでるんだろ?』


 やってくる死と死の向こうの虚無をトニオは心の底から恐怖していた。

 流浪民の人肉食は魂を喰らうための異教の儀式だ、と信じる者がいる。素朴な信仰者であるトニオは〈神〉の元に召されなくなることを恐れていた。トニオにとって、魂を喰らわれる恐怖は死そのものよりも大きい。

 俺は、違う、違うと頭をふりつづけた。

 何もかもが偏見と誤解だった。

 俺の知っている流浪民は……。

 だが俺はそれを言葉にはできなかった。

 俺は流浪民から生まれて、いろんな流浪民の文化をよく知ってる——。そんな言葉が今このときのトニオを救えると思えなかった。

 トニオは俺の手で弔われることを願っていた。被差別民の子である俺じゃなく、〈赤い鉄線〉の軍人で戦友である俺の手で。

 俺はそんなふうに自分の所属をあの国の誰かから認められたことは初めてだったんだ。

 俺はずっと、あの国の人間に、俺が彼らと同じ人間であることを認めてほしかったんだ。


『赤い……赤い鉄線に勝利の栄光あれ、だ……。ルシオ、早くやれ、迂回路……』


 俺はトニオの心臓にナイフを突き立てた。

 その頃の俺は鶏一匹も捌いたことがなかったが、基地内で豚が捌かれるのを数回見ていたし、兵士は皆どこにどんな臓器が収まっていてどう攻撃すれば人間が死ぬかくらいは叩き込まれる。だけど知識があるのと実際にやってみるんじゃ大違いだった。腹を裂いたら腸は勝手にこぼれた。いちど始めたらもう収拾がつかなくなった。手当たり次第に肉を切って血管をちぎって骨の継目を砕いた。だんだん辺りが暗くなってきて、あとはもう何が何だか。窪地の底の土を掘って、トニオだったものを全部そこに埋めて、俺は孤児院の司祭に仕込まれた弔いの聖言であいつを〈神〉の元に送った。

 俺は一人で敵軍の索敵網をすりぬけて川を渡り、自陣に戻って迂回路を報告した。

 〈赤い鉄線〉は同志トニオが命を賭けて発見した道筋から敵陣の後背をつき、ボラジア戦に勝った。

 二週間後にマラルサ首都は陥落し、帝国軍は壊滅状態で敗走していった。

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